安全神話、誰が発明した言葉か知らないが定義もされないままに重宝に使われている。使用される場面は主に各種の反対運動である。
#ある人が、「安全の神ってどんな神だよ。見てみたいよ。」とのたまわったが、そういう不信心なことを言ってると神罰が下るかもしれませんよ。と、思ってgoogleで調べたら"安全信仰"という言葉も使われているのですね。

 「遺伝子組換え作物」然り、「原発」然り。時には新幹線や、食品衛生、日常生活の安全(治安)についても使われることがある。そのような使われ方をするときには、困ったことに「安全神話」は決まって「崩壊する」ことになっているようだ。
 「安全神話は崩壊した」だから「危険だ」という論調で、何かに対して反対する際の証拠として引き合いに出される。
 しかし、技術者や科学者は、そもそも「安全の神」の信徒ではない。むしろ、物事がいかなる条件においても安全であるという状態、つまり「絶対の安全」などありえないと考えている。したがって、多くの研究者は、どのような要因が、どの程度、安全を脅かす可能性があるか、つまり潜在的なリスクの要因と程度を評価するという観点で研究を行う。その結果、何某かの事故が起こった場合、想定されなかった危険(リスク)が明らかになることがある。人智の及ぶ範囲には限りがあるので、想定外のリスクはおよそあらゆる場面で付きまとうが、だからといって、我々は科学技術の発展(それを進歩あるいは発展と呼ぶならば、だが)を止めることはもはやできないし、できたとしても止めるべきではないと私は考える。
# ガスも水道も電気も無い暮らしを想像できるだろうか? あるいは、畜力にたよった有機農業で在来の品種を栽培して、増え続ける世界人口を支えることができるだろうか? これから電車も車も飛行機も無い社会を目指すべきだろうか?

 我々の日常生活にあふれている科学技術は、それによって享受できる利益(Benefit, ベネフィット)と、それによってもたらされる潜在的な危険の程度(Risk, リスク)の均衡の上に成り立っており、そのバランスは新たな研究成果や技術革新、あるいは市民の監視によって絶えず見直されている。
 その均衡と見直しのプロセスの一部は、あるときは公害、薬害、労働災害やそれに伴う訴訟であり、頻発する交通事故であり、タイタニック号の沈没やジャンボ機の墜落であったり、関東大震災阪神大震災の火災や建物の倒壊であったりする。これらの顕在化した危険要因(Hazard, ハザード)は、危険の程度・発生の見込み(リスク)とともに、評価されるされるべき性質のものであり、さまざまなケースが考えられる。(こちらの例がわかり易い。) 災害のある部分は防ぎうる人災であり、有る部分は防ぎ得ない天災であると考えられる。人類は、そのような危険要因を克服し、ある時には耐え忍んで科学技術と人間社会とを調和させてきた。
 「安全神話」とその崩壊、というものの見方は、これまで科学技術が絶えずもたらしてきた問題提起とその解決の歴史を無視するものである。「絶対の安全」の追求は、我々の身の回りに常に潜在するリスクから目をそらすことに他ならない。

 我々は、危険要因を直視しなければ、たやすく安心を手に入れることができる。しかし、危険要因と向き合って、その評価(リスク評価)を行わなければ、安全を手に入れることはできないのである。
 私は思う。「安全と安心は別物」という議論の本質は、「安全」は科学的な見地に立てば「ある前提条件の下では、ある程度安全である」としか言い切れないのに対して、「安心」は「知り得ない条件をも含むあらゆる条件下での絶対の安全」を求めるという、科学技術のもつ本質的な限界に対する挑戦にあるのだと。
 最近、「安全・安心」をキーワードとして、遺伝子組換え食品等をめぐって、専門家が消費者と同じ視点で問題を共有するというアプローチをとるリスク・コミュニケーションが行われ始めている。かつては、パブリック・アクセプタンス(PA)活動と称して、専門家が情報を開示して大衆を啓蒙することで、公衆理解(パブリック・アクセプタンス)を得ようとする活動が盛んであった。しかし、公衆理解が得られない理由が情報の欠如ではなく、科学技術に対する公衆の信頼の欠如であることが明らかになるに及んで、かつての啓蒙活動は問題の共有へと変容してきた。そして、その動きは今日も続いている。
 しかし、「安心」が「絶対の安全」の保障を求めるものである限り、科学者は公衆の要求の満たすことはできない。これは、リスク・コミュニケーションに傾けられる努力の質や量に係る問題ではなく、安心の保障を目指すリスク・コミュニケーションの前提が内包する原理的な問題である。
#もちろん、そのリスクコミュニケーションが安心の保障を目指すのでなければ何の問題もないのだが。
 唯ひとつ、公衆理解と「安全」を結びつける方法があるとすれば、人類の歴史上、いまだかつて「絶対の安全」は存在しなかったし、これからも永劫に存在し得ないのだ、リスクには程度があるものだ、と公衆が理解することだろう。つまり、専門家が消費者と同じ視点で問題を共有するのではなく、消費者(公衆)が専門家と同じ視点で問題を共有することだ。そもそも、「安全神話」など幻想に過ぎず、連続した安全性/危険性の程度はあるだけなのだと。

「リスク/ベネフィット」
 昨今の「遺伝子組換え作物」をめぐる問題には、これまでの議論の流れとは別に、その恩恵にあずかる者と、リスクを負う者が異なる、という問題がある。
 「ベネフィットは私のもの。リスクはあなたのもの!」という訳だ。現状では、遺伝子組換え作物は海外から輸入されたものであり、遺伝子組換えによって付与された形質は、除草剤耐性にせよ耐虫性にせよ、生産者には利益をもたらすが、消費者が感じ取れるような実質的な利点は無い。つまり、”アメリカの生態系”にやさしい農作物のために日本の消費者がリスクを負う理由は無い、という構図である。この構造を打ち破る方法は・・・あるにはあるが、私はそれを言いたくない。

 このところ”スギヒラタケ”が原因と見られる脳炎による死亡事故が相次いでいる。経験的に食べても安全と思われていた食品でもリスクが伴うという実例であろう。全ての食品の毒性試験を行うわけには行かないし、仮に行ったとしても、栽培や飼育の条件によって毒性が現れるという場合には、毒性の現れる条件が確定しない限り、実験データに信頼が置けない。
 今回の一連の死亡事故については、なくなった方には気の毒というよりほかに無い。