観測可能・観測不能

科学哲学上の立場で、「科学は観測可能な物事については、観測主体と独立な世界について正しい理論や法則性を見出せるが、
観測不能な物事については、そうとは限らない」とする立場がある。「科学哲学の冒険」(戸田山和久著)によれば反実在論というらしい。

しかし、観測可能か観測不能かはどこで線引きができるのか?眼鏡をかけていない私と、
眼鏡をかけている私では観測できる領域も精度も大きく異なった訳だし、色覚に障害のある方とそうでない人では、計測器を使わない場合、
吸収スペクトルの判別精度に違いがある。個人差をどう考えろというのか。また、計測器を使う場合の観測可能と観測不能には、
合理的な線引きができるというのだろうか。

「植物の感情を測定する装置」のようなトンデモ装置の存在まで認めろとまでは言いませんが、
科学的な予想の限界が観察可能かどうかに関わっているとは考えたくもありません。

また、社会構成論という立場もあるらしい。要は、科学的事実といわれるものはすべて社会的な”お約束”に過ぎない。それが、
自然現象をよく説明するとしても、それは”たまたま”に過ぎない、という、恐るべき立場である。たとえ宇宙空間がエーテルに満ちていても、
物が燃える時にフロギストンが放出されていても、多くの人の日常には何のかかわりもない。また、
いかなる科学的説明も社会の一角でしか意味を持たないということには、うなずける一面もある。私は、
社会構成論を唱える人に反論しようとは思わない。その立場をとる方々の周辺で、その論が破綻しなければ、それで平和なのでしょうから。

社会構成論の立場をとったブルーノ・ラトゥールとスティーヴ・ウルガーという人が居るらしい。
人類学的アプローチで同時代の科学者の研究現場でフィールドワークをしたという。つまり、科学者本人の主張とは別に「実際に何をしているか」
を記録し、考察するという立場である。たとえば、分子生物畑の研究者が「制限酵素処理をした」という操作を、
「長さ2cmほどのプラスチックの円錐形の管に、数種類の微量の液体を注ぎ込んで、つめで管をはじき、彼らが”遠心装置”
と呼ぶ箱に数秒間入れては取り出し、36度に暖めたお湯に浮かべた。そのまま二時間放置していた。」という風に記述する。そして、
そのような行為の積み重ねは、それ自体理論には直結しないことを説く。日常の実験操作とは切り離された理論体系に照らして初めて、
それらの行為に意味が与えられるのだと。

結局、彼らの試みは上手くいかなかったのだが、私も時折、自分の日常の振る舞いから、”意味”を取り除いて見ることがある。
一日てんてこ舞いの状態で実験をして、その記録を整理してみると、一日の大半を実験台とクリーンベンチの前に座ってすごし、
分刻みで微量の液体をプラスチックの管に移し変え、暖めたり冷ましたりしている。はては電場の中においた寒天の板の穴に流し込んだり、
30分ほど待って、寒天板に紫外線を当てて写真を撮ったりしているだけである。それから何が分かるのか?そう、
体系立てられた知識を取り払って行為だけを眺めていると実にせせこましい労働である。

また、地域の農業試験場の役割から「研究成果の提供」を取り除いてみたこともある。すると、
研究を行ってきた当事者にとっては意外なことに、地域の農業試験場は研究成果を世に提供しなくてもそこそこ役には立っていることがわかる。
たとえば、研究室あたり平均1.5-2人程度の臨時職員を雇用している。試薬・
消耗品代などは研究室あたり平均500万-1000万円位だろうか。このほかに、パーマネントの職員の給与が平均一人550万円くらいか。
給与の一部は税金として地域に還流し、残りは地域で消費されたり金融機関に融資(預金)されたりする。また、年度途中には研究会、
年度末には推進会議や評価会議など各種会議があるので、遠来の客の宿泊費や懇親会費が地元に落ちる。

ある地域では、研究所の統廃合で会議が開かれなくなり、時を同じくして地元のホテルが廃業し、経営者が自殺してしまったことがある。
研究所の統廃合とホテル廃業の因果関係は分からないが。

つまるところ、地域の農業試験場の主たる役割は、雇用を生み出し地域に税金を還流する公共事業に他ならない。もし、「研究成果の提供」
を全くしない研究所があったとして、であるが。私が就職したころは、一研究室あたりの研究費が500万-1000万円かそこら。
職員の賃金は、一研究室2000万円くらい。いくらlabor intensiveな研究が多いからといって、
これではなかなかまともな成果は出るはずもない。現在こそ研究費はそのころの3倍以上、人員は2/3くらいに減っているので、
予算配分比率はかなりまともになってきているとは思うが、所掌業務が一向に減らないのは帰って不思議である。
書く書類の枚数は返って増えている。

さて、非常に卑近な話になってしまったが、結局、私が言いたかったことは、
どこで働くにせよ研究者は自分の仕事のコストパフォーマンスを給料込みで考えて、仕事の成果が社会にどのようにインパクトを与えうるか、
あるいは本当はどのようなインパクトを与えてきたのか、に常に関心を持ってほしいということなのだ。それをしない無自覚な研究者は、
自らどんな自負を持っていようとも、公共事業を行う研究機関という巨大マシーンの税金還流メカニズムの一部に過ぎない。さて、
あなたの研究成果は観測可能?それとも観測不能