「どの分野であれ、人の能力は概ね正規分布する」という命題が正しいとしたら、優秀な人材を多く育てるには母数を大きくとればよい。

これは、一面真実である。しかし、母数を大きく取ることは、優秀な人材を育成するための唯一の方法でもなければ、最良の方法でもない。
寧ろ最も安直で、しかもリスクの大きな(悪くしたことに、そのリスクは避けがたい)方法である。

母数を多く取ることの問題点は、優秀な上澄み博士(これを人材と呼ぼう)が生まれる一方で、その数倍の、必ずしも優秀とは言いがたい沈殿博士(これを人員と呼ぼう)が生まれることである。
人材対人員の比率は教育や人材養成の方法によって改善可能であると考えられるが、博士課程に進むヒトの潜在的な能力が時代を問わず同じであるならば、母数を大きく取るとそれに応じて人員が増えてしまうことは如何ともしがたい。これが、所謂「博士問題」の一面であるかもしれない。

一方、就職できない博士が多いもう一つの理由は、人材の需給バランスにあると考えられる。

国策としての博士の倍増の目的は、高度な専門的な研究能力を有する優秀な人材の確保である。その際に、どのような数値目標を立てたのか、私は詳らかでないが、そもそもの目標数値にどのような裏づけがあったのか疑問である。

本当に、そんなに博士が、というか高度な専門的な研究能力を有する人材が社会には必要なのか?表題にも書いたが、博士といってもその専門分野は多岐にわたる。博士の多くは、出来れば専攻した分野の研究で飯を食いたいと願っているはずだ。しかし、その研究分野の専門性は社会から本当に求められているのだろうか?

私も、博士(農学)であるが、現在の職は研究職ではないし専攻分野とも殆ど関係ない。そういう意味では、私の専門分野における能力は今現在殆ど社会の役に立っては居ない。
研究機関に在職中に10年がかりでコツコツ続けてきた仕事で論博を取ったものの、異動した先の職場は行政機関である。

ツブシが利くと見られているおかげで喰いっぱぐれないではいるものの釈然としない思いはある。学位取得のための社会的なコストは、働きながら傍らで行ってきた研究なので、(分野にもよるが)コースドクターの養成ほどは金はかかっていないかも知れない。
 個人的に学位取得のために払ったコストは定量できない。それは生活と切っても切り離せないものだからだ。あの努力は一体何だったのかと思う。
 その一方で、在職中に学位を取得すると給料の格付けが上がるという、ありがたい仕組みのおかげで一面報われては居るのだが、やはり研究がしたい。

 研究はしたいのだが、農学分野の研究を日本の社会は今も、そしてこの先も必要としてくれているのだろうか。そして私が、専門家として働く場はこの先もあるのだろうかと時折不安に駆られる。

その博士号は、社会に必要とされているだろうか?