更新を怠っているうちに10月になってしまいました。いやはや・・・。

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 朝日新聞8月31日付「私の視点」にジェレミー・リフキンの寄稿が掲載されていた。主旨は、「消費者に受け入れられない遺伝子組換え技術はもう古い。これからはMAS(Marker Assisted Selecton)だ。」というものである。この筆者が遺伝子組換え技術とMASについてどの程度の知識があるのかは知らないが、これらの技術は本来、相互に補い合うことができるものであって、二者択一の条件で比較するべきものではない。

 この人物は、あえて誤解して見せて誤った情報を流布している確信犯なのか、無知なるが故に誤った情報を垂れ流してしまっているのか、私には判断できない。が、いずれにしても市民に誤った認識を与える結果を招く恐れがあるという点で、このコラムは有害である。私は、大新聞がこのような誤解(とおそらくは偏見)に満ちた風説にも近い根拠薄弱な論説の伝播に加担したことに失望とを覚える。それと同時に、技術的な見地から妥当性を欠くこのような比較を許すメディアの科学リテラシーの低さに、この国の科学技術の将来性に大きな不安を抱いた。

 MASとは、品種間のDNAの違いを目印にして品種Aの遺伝的形質(遺伝子で決まる特定の性質)を、他の遺伝形質に影響を与えずに品種Bに導入する技術である(正確に言えばもっとバリエーションはあるが)。つまり、従来から行なわれてきた交雑育種の選抜効率を底上げする技術であって、主な目的は開発コスト(のうち、主に時間と人件費)を削減することにある。極言すれば、仮に無限の時間と無尽蔵の労働力があれば、MASで作られる品種は従来の育種技術でも、理論上は作ることができる。しかし、どんな品種の開発においても育種に割ける労力と時間は限られているので、現実にはMASを使わなければ作りえない品種というものもありうる。いずれにしても、どんなに高度な選抜技術を使用したとしても最終的に作り出されるものは、”普通の”品種である。

 一方、遺伝子組換え技術は、人為的に組み合わせた遺伝子を生物に導入するものであることから、自然界で起こる交配では決して生まれない新しい遺伝子の組合せを持った生物を作り出すことができる。これは、仮に無限の時間と労力を割いたとしても実現することはきわめて難しい(極特殊なケースでは自然現象として異種の生物の遺伝子が、他の生物の遺伝子に導入されたと見られる形跡はあるものの、人為的な設計に基づいた腫を超えた遺伝子の導入はこの技術を使わなければ実現できない)。
 現実には法律上の規制をクリアするために開発コストがかさむことから、相応の開発メリットが無ければ実用化に漕ぎつけることは難しい。
 しかし、それは技術そのものの持つ欠点による難しさではない。

 当然のことながら、いかなる技術であっても使用される場面に応じて適切に使い分けられるべきである。
 農作物の育種におけるMASと遺伝子組換え技術の関係は、例えば自動車開発におけるハイブリッドシステムと燃料電池のようなものだ。
 ハイブリッドシステムは、従来型の内燃機関の効率をモーターで補うものであり、燃料電池はモーターに電力を供給する方式の一つである。
 技術的には燃料電池のみを動力源にする電気自動車を作ることもできれば、ハイブリッドシステムと組み合わせることもできるはずだ。

 作物の育種においても、MASのみで十分な場合も確かにあるが、今後世界が直面するであろう食料問題やエネルギー問題に備えた、特定の性能を持った農作物を開発しようとする場合、遺伝子組換え技術を使わなければ実現できない問題は確実にある。

 研究者は一般に推測を語りたがらないものだ。だが、私はゲノム研究が進展した暁にはMASは過去の技術になることを予想している。
 今後すべての作物でゲノム研究が進展するとまでは思わないが、ゲノム研究の進んだ作物では、MASはやがてより進んだ代替技術の出現によって過去の技術になるだろう。例えば、イネではこれまで育種の現場では、表現型での選抜が行なわれて来たが、近年はDNAマーカーを指標として選抜した実用品種が育成されてきた。しかし、DNAマーカーは表現形質を支配する遺伝子そのものではなく、ある形質を支配する染色体上の場所の近くにあるDNA上の目印でしかない。
 今後のゲノム研究の進展は、農業形質を支配している「遺伝子そのものの違い」を明らかにすることで、「遺伝子の近くの目印」ではなく「遺伝子そのものの違い」を直接選抜することでより高精度の育種が可能になる。

 話は変わるが、先日育種学会で現役の稲の育種家と久しぶりに話す機会があった。
 彼はイモチ病圃場抵抗性遺伝子をMASで既存の品種に導入する仕事をしているが、マーカー選抜の部分は共同研究先に委託している。つまり、育成中の稲の個体の葉を共同研究先に送ると、共同研究先からはどの個体が目的の抵抗性遺伝子を持っているかのデータが送り返されてくる。
 あとは、開花を待って目的の遺伝子を持った個体に既存のイモチ病に弱い品種を交配するだけだ。表現型を確かめる必要は無いので、交配だけであれば熟練したパートさんでも育種はできる。あとは、世代を進めながら交配を重ねて、最後に自殖させて表現型を確認するだけだ。

 かつて育種は育種家の眼力に依存する"Art"であった。今、育種は"Engineering"(技術)になろうとしている。
 ゲノム研究の成果は育種家から夢を奪う。やがては、仕様書道理の性能をもった品種を納期までに完成させるのが当たり前、という時代が来るかもしれない。

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なお、朝日新聞のコラムについてはバイオテクノロジー・ジャパンで松永和紀氏が批判している。