生物学にBig scienceは似合わない? -あるいはomicsの黄昏?-


最近、シーケンサーの能力の爆発(もう向上という水準ではなくなりつつある)についてのエントリーを書いた。

シーケンサーの能力の向上は、ゲノミックスを中心的な業務としているラボの姿を一変させる可能性を秘めている。

従来のスタイルは、Wet中心の実験室+シーケンサーを動かすためのバックヤード(テンプレート調整&キャピラリの洗浄・充填)
というシーケンス工場だったが、これからのスタイルは実験室+"storage farm"かもしれない。これまで、
シーケンサーを設置していたスペースが空き、稼働準備のための設備も大半は必要なくなる。

理研のゲノム科学総合研究センターの解散が報道されている。以下は、毎日新聞より。

 



 

 


ヒトゲノム:研究の長期戦略どこへ 理研の科学総合センター解散へ

 人間の全遺伝情報(ヒトゲノム)を解読する国際ヒトゲノム計画に貢献した「理化学研究所ゲノム科学総合研究センター」
が3月末に解散する。産業への貢献が期待されたほど進まず、政府が独立行政法人の合理化を進める中で、見直し対象になった。
欧米でも研究方針は頻繁に修正されるが、研究拠点の解散は珍しい。研究の一部は新組織で継続されるものの、
センターとしての活動は10年間で終了することになり、ゲノム研究の長期戦略が論議を呼びそうだ。【田中泰義、青野由利】

 ◆10年間で1264億円投入

 ◇人材と資金を集中

 ヒトゲノム計画は1980年代に提案され、米国を中心に国際協力で進められた。日本も90年代初めから参加し、
98年にセンターが発足した。生物分野では初めて人材と資金を集中させた大規模研究機関で、10年間で約1264億円が投じられた。

 この間、センターは21番染色体のゲノム解読で中心的な役割を果たし、チンパンジーやマウス、
シロイヌナズナなどのゲノム解析でも成果をあげた。機能を持つ遺伝子のデータベースもマウスで作成した。榊佳之・同センター長は
「新たな万能細胞である人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発も、われわれの基盤的な研究成果が支えた」と強調する。

 ◇学問的検討が不足

 一方で、生物学における大型研究の戦略には課題も残した。

 ゲノム解読では、使用機器の開発などに日本人が貢献した。しかし、日本の解読率はヒトゲノム全体の1割に満たなかった。
このため「適切な時期に資金が投入されず、十分な国際貢献ができなかった」との批判が出た。

 こうした声を踏まえ、政府は02年度以降、遺伝子から作られるたんぱく質の立体構造を決めるプロジェクト「タンパク3000」
に積極的に予算を計上した。センターを中心に約578億円をつぎこみ、4187個の構造を決定したが、
期待されたほど医薬品開発に直結しなかった。成果は見えにくく、再び研究戦略が問われた。

 中村桂子・JT生命誌研究館長は「生物学は本質的に大型プロジェクトになじまない。ゲノム解読はプロジェクトに合う、
まれな例だった。解読終了後は、それをどう展開するか考える必要があったのに、
国際競争と称して学問的検討のないままタンパク3000などに資金を投じた」と指摘する。

 結果的に組織は解散が決まった。センターを構成する5研究チームのうち1チームが研究を終了。
他の4チームは理研の他組織と統合した新領域などとして再スタートする。

 ◇行革「見せしめ」の声も

 合理化による研究拠点の改組を外部の専門家はどうみるか。

 隅蔵(すみくら)康一・政策研究大学院大学准教授(科学技術政策)は「この分野の基盤は整備され、
研究機関にとってゲノム解読装置やデータベースなどは普通のインフラになった。
選択と集中の観点から発展的に研究体制を再編するのは妥当ではないか」と受け止める。

 確かに、解読装置の機能向上は著しい。00年ごろにはヒトゲノムを1台で解読するには4年以上かかった。
それが今では25〜40日で可能となり、10年にはわずか約2分に短縮される見通しだ。
大量の機器を一研究機関に集中させる必要性は薄らいだ、との見方はセンター内にもある。

 一方、吉岡斉・九州大教授(科学技術史)は「内外での評価を踏まえた上での判断と考えるが、
行革のために見せしめ的に行った印象を受ける。研究機関に対し、短期間で成果を出せという風潮が強まるのではないか」と警戒する。

 榊センター長は「10年間の成果が活用できるよう、国には今後も十分な対応を求めたい」と話している。

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 ■ことば

 ◇ヒトゲノム解読

 人間の遺伝情報は細胞のDNAに、4種類の塩基を組み合わせた暗号文字で書き込まれている。
ヒトゲノム計画は人間の全遺伝情報を担う約30億塩基対の配列を解読する国際プロジェクトとして90年代初頭に始まり、
03年に終了した。その後、研究の焦点は、遺伝子の働きやたんぱく質の構造と機能、RNAの役割などに移ってきた。
DNAなどの分子が細胞内で構成するネットワークの解明や、ゲノム解読で得られる大量データの情報処理も課題となっている。

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 ◇ゲノム計画の歴史◇

1988年 国際ヒトゲノム計画を推進する国際組織「HUGO」設立

  90年 国際ヒトゲノム計画開始

  96年 参加国が解読結果を直ちに公開することなどで合意

  98年 理化学研究所ゲノム科学総合研究センター発足

2001年 ヒトゲノム解読概要発表

  02年 タンパク3000計画開始

  03年 ヒトゲノム解読完了

  07年 タンパク3000計画終了

毎日新聞 2008年3月23日 東京朝刊

 



 

 文部科学省出向中に、理研のゲノム科学総合研究センターを訪問したことがある。タンパク3000の幕引きの前年、
2006年だったと思う。壮大なシーケンサー工場と、NMRパークが印象に残っている。もし、
この施設を維持することが目的化してしまったら大変なことだな、と。そういう意味では、技術的な理由、あるいは知見の集積の結果、
巨大工場が要らなくなったので、スクラップ・アンド・ビルトで組織を改めるというのは、むしろ歓迎するべき出来事だと思う。

 理研のシーケンス工場のシーケンサーは、島津と共同開発したRISAシリーズのキャピラリーシーケンサーだ。
384本の石英キャピラリーを備えた電気泳動タイプのシーケンサーとしては、単体での処理能力は世界有数のものだったと思う。
1PASSで読める長さも900bp前後あったはずなので、
完全長cDNAプロジェクトなどでは信頼性の高いデータの蓄積に一定の貢献があったと考えられる。しかし、装置が大型である、
キャピラリーの洗浄やセットアップに専用の装置が必要である等、設備的・
人的な稼働コストが結構かかる点が災いしてそれほど普及しなかったように思う。

 世界的なシーケンサーの開発動向はこちらのエントリーに書いたので、
ここでは触れないが、技術的な動向からいってもシーケンサー単体の飛躍的な能力向上の結果、シーケンス工場はもう要らない。だから、
行革の見せしめがどうのというのは的外れなように思う。的を射ているかどうかは、理研の運営費交付金の動向を見ればはっきりするだろう。
少なくとも、研究室のインフラになる様な小型シーケンサーはこれからも存在し続けるだろうし、
ゲノムプロジェクトをコンパクトにしたようなスーパー・シーケンサーは、それとは相当に異質な代物だ。科学史研究者は、
技術論に精通しているのだろうが技術そのものには疎いのかもしれない。

 ゲノム研究への投資のタイミングを逸したというのはもはや動かしがたい史実であろう。しかし、
10年間で1264億円という事業費は巨額か否か?見出しに数字があると、巨額であることを印象づける結果になるのだが、
この分野での他国の投資と解読率との比較がないのは記事としてアンフェアだ(もっとも、サンガーセンターと比べられると負けちゃうような気はしますが)
。もっとも、これとて宇宙開発予算の端数にしかすぎない。

 もともと、ヒト・ゲノム研究は、
ヒトの遺伝子のフルセットがどうなっているのか分からない時代に散発的ながん研究があまりに多かったので、
研究基盤を整備する意味で始められたように思う。今日ではヒト・ゲノム研究も終了し、基盤的なデータセットが一通り揃ったところなのでで、
そもそものヒト・ゲノム研究のきっかけになった、がん研究等の個別研究に資源を再配分する時期では無いだろうか
(こういう視点が科学史の研究者から出てこないのがちょっと悲しかったりする)。

 タンパク3000にしても、ヒト・ゲノムにしても、計画の立案時から見て、タンパク質の立体構造に関わる知見や、
ゲノムや遺伝子に関する基本的なものの見方が随分変わってしまった(※)。それは、これらのプロジェクトのアウトプットによる影響であり、
プロジェクトのアウトプットが、プロジェクトの前提条件となる知識基盤を動的に変容させてきた過程を表している。

 しかし、ゲノム研究やタンパク質の構造解析の結果、なにかすぐに社会の役に立つ成果が得られると誰が考えたのだろうか?
私はそんな無責任なことを言う専門家が居るとはちょっと考えられないのだ。特に、
タンパク3000のプロジェクト企画段階では分子標的医薬はまだ実用化されても居なかっただろうから、
医薬品開発にすぐに結びつくなんて誰が言い出したのか。記事では”期待されたほど医薬品開発に直結しなかった”というが、
誰がそんな期待をしたのだろう。

 



 


※ どう変わったは、一言では言いにくい。

私は素人だが、
タンパク質の立体構造は構造モチーフ情報の集積と計算機科学の進歩によって基本的な3次構造から予測できるようになってきており、
必ずしも結晶構造解析をして決定しなければ前に進めないという状況ではなくなりつつある。このような進歩やNMRの改良によって、
X線結晶構造解析もかつてほど必要とされなくなっている。その結果、宇宙ステーションでのタンパク質の結晶化も、どうしても必要、
という状況では無くなってきている様に思う。

ゲノムも、「遺伝子とそれ以外の部分」という括りで見ていたものが、実はゲノムの至る所から機能RNAへの転写が行われており、
ゴミタメのように言われてきた非コード領域に由来するRNAの生物学的重要性が格段に増している。また、「遺伝子」からの転写産物も、
スプライシングのされ方によって、結果として異なるタンパク質をコードしていることもあり、
遺伝子とタンパク質の対応もなかなか一筋縄ではいかなくなってきている。

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