2/4 朝日新聞天声人語より

あらかじめ言っておく。ソメイヨシノを勝手に「ソメイ」と略すな!
以下、このエントリーでは天声人語を”人語”と呼ぶことにする。

▼しかし手放しでは喜べない。人が植えたソメイの花粉で、近くの野生桜が交雑する「遺伝子汚染」が報告されている。環境省の研究班がヤマザクラオオシマザクラエドヒガンなどの種子を調べたら、13%からソメイの遺伝子が見つかったという▼生物は地域ごとに進化し、それぞれの環境に適した最良の遺伝子を受け継ぐ。遺伝子が混じると、病気や気候への適応力が弱まりかねない。花見のとばっちりだ

朝日新聞の方々は生態学的な思考が苦手なのではないかと懸念される。

環境省の研究班がヤマザクラオオシマザクラエドヒガンなどの種子を調べたら、13%からソメイの遺伝子が見つかったという」

これは、

環境省の研究班がヤマザクラオオシマザクラエドヒガンなどの種子を調べたら、87%から野生のサクラの遺伝子のみが見つかったという」

ということだ。

この実生がそのまま若木になれば、87%は自然界でよく見られる遺伝子の交流の産物ということになる。もし、”そのまま若木になる”と言う前提が崩れるとしたら、どういう場合か?仮に、天声人語にいう様に「病気や気候への適応力が弱ま」れば、その木はきちんと育たない。従って、ソメイヨシノの遺伝子が受け継がれていく確率は高く見積もっても13%、環境適応性が低くなればそれよりも下がる。

山林にはサクラが自生している所は随所にある。そういうサクラは実生で繁殖する。しかし、山林がサクラだらけになることはないのはなぜか?毎年生産される実生が、他の植物との競争や環境からのストレスに負けて死んでいくからだ。

たかだか1割少々の確率でソメイヨシノの遺伝子が紛れ込んだとして、しかもそれが「病気や気候への適応力が弱まる」のであれば、残りの9割の実生がそれらの雑種に取って代わると考えるのが妥当ではないか?それとも、野生のサクラは種子生産の能力が非常に低いという事実があって、1割程度の虚弱な実生が生じると次世代を再生産できなくなる懸念があると言うことなのだろうか。

”交雑種子ができる”ということと、”その種子由来の実生が育って集団の遺伝子型が変化する”、ということの間に必然的な関係はない。集団の遺伝子型が大きく入れ替わるのは、雑種の適応能力が非常に高い場合か、遺伝子頻度の機会的浮動(random genetic drift)が起こった場合だけだろう。

もっとも、”人語”では「生物は地域ごとに進化し、それぞれの環境に適した最良の遺伝子を受け継ぐ。」との妄言を恥ずかしげもなく書いていることから、論理を展開する上で、遺伝子頻度の機会的浮動を考慮していることはないだろう。遺伝子というものは、遺伝子を交換できる生物の集団のなかで、ある程度の多様性を保ちながら維持されている。遺伝子に生じた死なない程度のそこそこの突然変異であれば、多少の不都合があっても親から子へと引き継がれていく。決して「最良の遺伝子」が受け継がれる仕組みにはなっていない。もし、最良の遺伝子しか残らないのであれば、その生物集団では種内の遺伝的多様性は急速に失われてゆき、環境が大きく変動した場合には速やかに死滅するかもしれない。

いずれにしても、数十年前にソメイヨシノが移植された地域の山林で、世代交代したサクラの成木にどの程度の頻度でソメイヨシノの遺伝子が入り込んでいるかを調べるまでは分からないことだ。

「雑種を移植したのがいけない」という偏頗な理屈でカタの付く問題ではない。なぜならば、ソメイヨシノというクローンはおそらくは雑種だが、遺伝子自体は基本的に”混じり合う”ことはないので、個々の遺伝子はオオシマザクラ由来の遺伝子かエドヒガン由来の遺伝子のどちらかであり、雑種だからどうのと言う特異な問題は生じない(もの凄く微視的に見ると、遺伝子レベルの分子内組換えと言う現象があるので”基本的に”とただし書きを付けておく)。

ちなみに、”人語”や記事に引用された生態学会の発表要旨はこちら

これも、エドヒガンやオオシマザクラの遺伝子の拡散がいけないと言う論旨であれば、その親である、もともと分布域の狭いオオシマザクラは、本来の分布域ではないどこに持っていっても”遺伝子攪乱”をおこすので、”いけない”ということになりはしないか?その場合、種間雑種ができること自体が問題なのだろう。

以前、朝日新聞ではホシザクラという”新種”のサクラについての記事が掲載されていた。記事によれば、このホシザクラもエドヒガンとマメザクラの雑種らしい。現状で100個体ほどが自生しているが、個体数が減ってきているとのこと。

朝日新聞によれば、こちらの雑種は保護するべき対象で、各地に移植されているソメイヨシノは”遺伝子汚染”の元凶らしい。”人語”では、ソメイヨシノが「人が植えた」”雑種”だからという理由で不当に貶められている様な気がする。馬鹿馬鹿しい限りである。

私はむしろ、南は北緯35度の九州から北は北緯43度の北海道まで、単一のクローンが移植されているのにもかかわらず、そこそこ生育している様子を健気にさえ感じるのだが。観賞用の樹木の品種としては実に優秀ではないか(どこに行っても一緒のサクラというのは、お米のコシヒカリと似て、いささか面白味に欠けるところではあるが)。

こざかしい人間の議論を余所に、今年も様々なサクラが日本の春を彩ることだろう。

※ Prunusと言う属は分類単位としては結構雑駁な集合である様に思う。そもそも、分布域が地理的に隔離している以外の基準では、別種と言えるかどうか微妙な”種”同士の交雑後代を、わざわざ雑種と定義したり、新種と定義したり・・・。自然環境の有り様から見ればどうでもいい話で研究者の飯の種以上の意味はないだろう。

 たとえば、イネだってOryza sativaという栽培植物の集団のなかにjaponicaタイプとindicaタイプがあるように言われてきた。しかし、ゲノムサイズや各種の遺伝的変異の蓄積のあり方、交雑後代の不稔からみて、よく似た祖先野生植物から別々の場所、時代に人の生活の中に入り込み、栽培され、そして、まとめてイネ(Oryza sativa)と命名されたものだ。だが、japonicaタイプとindicaタイプをわざわざ別種としては扱わないし、交雑後代を新種とも呼ばない。
 イネは作物だから特別なのだと言われるかも知れないが、Prunus属だって結構栽培化されている。ウメ、モモ、プルーン、スモモ、アンズ etc.。要は人間の認知がどこまで自然分類(これも実存としては怪しいところはあるのだが)に介入するのか、という問題なのだ。

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