このエントリーではmct118については書くが、裁判についてはあまり触れない。

mct118は足利事件のDNA鑑定に使用されたDNAマーカー。多型のタイプから言えばVNTRにあたる。論文として英文誌に発表されたのは次のものが一番古いようだ。

K Kasai, Y Nakamura, and R White, “Amplification of a variable number of tandem repeats (VNTR) locus (pMCT118) by the polymerase chain reaction (PCR) and its application to forensic science,” Journal of Forensic Sciences 35, no. 5 (September 1990): 1196-1200.  

雑誌に掲載されたのが1990年の9月。これがピア・レビューのある雑誌への初出であれば、同業の専門家の評価や批判にさらされたのはこれ以降ということになる。

足利事件の経緯をおさらいしてみると、こちらのサイトの情報によれば、科警研で被疑者と犯行遺留品のDNA鑑定を行ったのは、1991年11月とある。この当時の技術水準から言えば、電気泳動像はこんな感じ(日本ジーンのキットのホームページ)で、PCR断片が長くなると16 bp程度(1反復単位)の違いは非常に見分けにくかったと想像される。

最初の論文が出てわずか1年後には捜査に使われたことになる。ちなみにこの論文の研究が行われたところは、"University of Utah Health Sciences Center, Salt Lake City."。アメリカである。

ヒトのDNA多型は、民族や人種集団で多型の頻度や種類の構成が異なる。このmct118についても日本の警察で証拠固めに使えるようになるまでには、日本人の集団におけるバックグラウンドを固めておく必要があることから、相当数の試料分析しておく必要があったはずだ。・・・それをどのくらいの期間でやったのだろう。なんだか、きりきり舞いしている研究者の姿が瞼にちらつく。また、こういう場合、バリデーションは大丈夫だったのかと少々気になるところ。

現在のDNA鑑定のガイドラインでは、複数の研究室の間で分析結果の整合性が採れない方法は証拠としては採用されないはずだが、当時の技術水準から言えばそれは難しかったのだろう。

さて、上記の論文には続報がある。初期にはmct118型検査の際にD1S80遺伝子座からPCRで増幅されたDNA断片の塩基配列がまだ決まっていなかったことから、32個の対立遺伝子の塩基配列を網羅的に決めてしまおうという試みだ。

Koji Fujii et al., “A new sequenced allelic ladder marker for D1S80 typing,” J Hum Genet 49, no. 3 (February 26, 2004): 169-171. 


# なお、この論文のPDF版は無料で公開されており、ご家庭でも読めます・・・読まないか。

この論文によれば、このMCT118型のVNTRは完全な反復配列ではなく"RMRRA CCACH RGVAA G"という、あちこちに変異が入って13種類に分化した反復単位の繰り返しでできている。興味深いことに、Figure 2を見るとallele 39-44の6種類の対立遺伝子の間では、反復単位10型の部分で”伸び縮み”したような形跡がある。

非常に多型的な遺伝子座に見られる現象だが、こういう場合、確率は低いけれども、電気泳動像では同じように見えるため、同一であるとタイピングされてしまうが、塩基配列の上では別物と言うことも起こりうる。この論文の水準に達しても、まだ単一の遺伝子座でDNA鑑定を行うのは危なっかしい。

ちなみに、足柄事件の場合はその種のエラーではなく、もっと初歩的なヒューマンエラーの積み重ねがあったようだ(*)。

また、こちら跡見学園女子大学専任講師 中島宏さんが書かれているが、初期の証拠では被疑者のDNAとして「平成三年六月二日に被告人が集積所に捨てたごみ袋の中から、精液の付着したティッシュペーパーを採集した。」とある。

しかし、被疑者が捨てたゴミに含まれていた精液が本人のものといえるかどうか?そこには推定が挟まっている。せめて、本人の毛髪や血液の提出を受けて、それと照合するべきだろう。再鑑定を拒否した裁判官は、その点を問題としていなかったようだ。

DNA鑑定そのものがいかに技術的に進歩して確実性を増しても、それ以前の証拠の取り扱いに瑕疵があっては証拠としての確実性は高まらないのだ。それは単純な「DNA鑑定の問題」ではないのだが。

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