6月7日の読売新聞社説より。

” 日本でもかつて、国土の開発が急速に進み、自然破壊が顕在化したが、近年は自然保護に配慮した開発が一般化したといえよう。喫緊の課題は、里山保全・再生ではないだろうか。

 樹木を伐採して炭にする。落ち葉を肥料に活用する。日本人は人里近くの野山に手を加え、生活に役立ててきた。里山は人間と自然の共生の象徴といえる。

 だが、近年、山間部の過疎化などで里山の手入れが行き届かなくなった。竹に侵食された里山も少なくない。里山は、日本固有の動植物の生息の場でもある。その荒廃は、生態系に大きな影響を及ぼしている。”

里山の”荒廃”が生態系に影響を及ぼすとして、それは”誰にとって望ましくない”ことなのだろうか?

たとえば、阿蘇の草千里は千年にわたる里人の野焼きで維持されているし、佐賀県の虹の松原も住民の芝刈りと松葉の除去で下生えを管理して維持してきた。各地の里山の維持もそれと同様なのだが、人手が入らなくなると荒れる

この荒れるという状態の推移は現在でも各地で見られるのだが、将来にわたって際限もなく変化が続くという意味ではない。Reinhold Tuexenらによれば、いずれはその地域の気候帯に見合った自然な均衡状態、つまり、潜在自然植生へと戻っていくと考えられる。

実は、耕作放棄地が山林や原野に戻っていく過程もこれと同じような現象だ。その回帰の過程では、水田という人為的な生態系を生活の舞台としていた小型の魚類や、それを餌にする鳥類は姿を消すだろう。コウノトリの里も、トキの里も、人為的な生態系であって人手の入らない自然環境とはほど遠い。そういう環境は縄文時代には普通ではなかったはずなのだ。その気候帯・風土の本来の生物多様性のベースラインは、原生林や原野であって人里ではない。私はそう思う。

人手の入っていない自然な状態への回帰の過程を、我々は自分達の都合で荒れると言っているに過ぎない。それが生物多様性保全という観点からどのように望ましくないのか、私には良くわからない。それのどこが問題なのだろう?

私は原野だらけの北海道出身だから特にそう思うのかもしれない。関東に住んでいると手つかずの自然などまず目にしないし、このような社説を読むと、都会に生活基盤を置いている人達にとって、自然とは守ったり維持したりするものと考えている様に見受けられる。そうではなくて、放っておいてあるがままの状態に落ち着いたところが自然なのだ。

スーパーで売られている農産物や食料品に「自然の恵み」と書いてあるのを目にすると、「我々の食べ物で、真に”自然の恵み”といえるのは養殖でない海産物くらいだろ(鯨を含む)!」と突っ込みたくなる。自然はそんなに気前よく人類に恵みを分け与えたりはしないものなのだ。

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同じ社説からもう一点。

”日本は食料の多くを輸入に頼っている。食卓に上る魚介類や肉、穀物などは、世界各地の多様な生物の恵みそのものといえる。世界的な視点で生態系の維持を考える必要がある。”

あのぅ・・・。魚介類を生物多様性の文脈で語って頂くのは結構だが、肉や穀物はちょっと違う。野生動物の肉を輸入している訳ではないし、穀物は外国の農家が栽培したもので、手付かずの生態系から採取してきたものではない。

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