拡散防止措置のレベルがP2以上の遺伝子組換え実験において、エアロゾルが発生する(あるいは、しやすい)場合に使用が義務付けられている”安全キャビネット”という装置がある。平成16年2月に廃止された「組換えDNA実験指針」では、その仕様や保守のための取り扱いが決められていて、たとえばP4レベルでは、安全キャビネットの設置に際しては、定期検査、HEPAフィルターの交換、ホルムアルデヒドによる燻蒸等が安全キャビネットを移動しないで実施できるよう配慮すること。また、安全キャビネットは、設置直後、次に掲げる検査を行うとともに、年1回以上定期的にア及びイの検査を行うこと。
ア 風速・風量試験(クラス?を除く。)
イ HEPAフィルター性能試験
ウ 密閉度試験

とされていた。
 現行の「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律」(以下「遺伝子組換え生物等規制法」)の実行段階の規定にあたる「 研究開発等に係る第二種使用等に当たって執るべき拡散防止措置を定める省令」では、P2レベルについては、

(2) エアロゾルが生じやすい操作をするときは、研究用安全キャビネットを用いることとし、当該研究用安全キャビネットについては、実験を行った日における実験の終了後に、及び遺伝子組換え生物等が付着したときは直ちに、遺伝子組換え生物等を不活化するための措置を講ずること。

あるいは、P3レベルについては、

(9) 実験室に研究用安全キャビネットが設けられていること(エアロゾルが生じ得る操作をする場合に限る)。
(10) 研究用安全キャビネットを設ける場合には、検査、ヘパフィルターの交換及び燻蒸が、当該研究用安全キャビネットを移動しないで実施することができるようにすること。

(5) エアロゾルが生じ得る操作をするときは、研究用安全キャビネットを用い、かつ、実験室に出入りをしないこととし、当該研究用安全キャビネットについては、実験を行った日における実験の終了後に、及び遺伝子組換え生物等が付着したときは直ちに、遺伝子組換え生物等を不活化するための措置を講ずること。
となっており、安全キャビネットの具体的なスペックや取り扱いについては、国は関与しておらず事業者の責任において決めることになっている。
 この点について、不安を感じる向きもあるようだ。しかし、遺伝子組換え生物等規制法の考え方は、国際的な取り決めである生物多様性条約の一部である「生物多様性条約バイオセーフティに関するカルタヘナ議定書」を担保することを第一目的としており、人の健康については「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律第三条の規定に基づく基本的事項」のなかで第二第1「他法令の遵守に関する事項」に「遺伝子組換え生物等の使用等を行う者は、法の規定によるほか、人の健康の保護を図ることを目的とした法令等予定される使用等に関連する他法令を遵守すること。」として、規定されている。
 つまり、実験者の健康や実験を実施する施設周辺住民の健康に対する、組換え体である感染性微生物等による被害の防止については、その微生物等が特に組換え生物であることを考慮して遺伝子組換え生物等規制法で対応する必要はなく、従来の労働安全性や環境安全性に関する他法令の枠組みで処理できるとする考え方が示されている。安全キャビネットについても例外ではなく、その使用による実験従事者や周辺住民に対する安全確保は、「労働安全衛生法」や「感染症予防法」の枠組みで考慮するべき事柄である。しかしながら、圧力容器等とは異なり安全キャビネットについては労働安全衛生法以下にその運用方法等を定めた政省令等は存在しないため、事業者自らの責任において設けたルールに従って運用することになる。

 さて、遺伝子組換え実験の際の安全キャビネットによる安全確保については以上のようにまとめたところで、もう一つ問題がある。それは、「安全キャビネットとは何か?」という定義である。実は、これまで述べて来た「安全キャビネット」とは通称に過ぎない。正確には、「生物学用安全キャビネット」と呼ばれるべきものであって、これは2000年にJIS規格で改めて定義されている。それによると、最新の名称は「バイオハザード対策用クラスIIキャビネット」とされており、品名に「安全」ということで機器自体が安全を保証する印象を与えるおそれがあるとの理由で,「安全」をはずすことになった。実際にはクラスII以外のJIS規格もあることから、ここで言う安全キャビネットとは「バイオハザード対策用キャビネット」を指すものとする。

前提を固めたところで、ようやく主題に入る。
安全キャビネットは安全か?
このような一般的な問いに答えるには、まず
 1. どのような規格・能力の安全キャビネット
 2. どのような使い方(使用する生物、保守点検)で使用するか
が明らかになっていて問題が定義できる必要がある。

そもそも安全キャビネットというものは、病原微生物一般を安全に取り扱いできるように設計されているべきものである。そのスペックについては、わが国ではJIS K 3800:2000で規定されているが、ここでは試験粒子(DOP)に対する補足性・透過性を規定しているのみで、病原微生物に対する実測値に基づいたものではない。
しかしながら、病原微生物とはいえ、常識に従えば物理法則に従うものと判断できるので、試験粒子についてのデータがあればそれを以って病原性微生物の補足性・透過性を推定することは可能であることから、JIS規格準拠の安全キャビネットの基本的な性能についてはその安全性を疑う特段の理由は無いものと考えられる。

では、それ以外のものはどうか?国立感染症研究所バイオセーフティ管理室によると、わが国で安全キャビネットが使われ始めたのは、1980年代からとされている。従って、最も古い安全キャビネットは約20年前のものということになる。当時の基準としては1976年、NSFNSF/ANSI Standard 49(用語の理解をめぐる混乱はあったものの、現在もこの基準は見直しを受けながら生きている)が適用されていたと考えられる。この基準は、JIS規格の策定の際にも参考にされていることと思う。
当時の安全キャビネットに、製造上の規範としてそれ以外の基準を適用したものがなければ、「組換えDNA実験指針」においても、”NSF/ANSI Standard 49”を記載しても良かったのかもしれないが、NSFもASIはアメリカの規格であって国際基準ではないため、日本の制度でそれを引用するのはためらわれる。そこで、「組換えDNA実験指針」には具体的なスペックを記載したのではないかと考えられる。なお、日本のJISで安全キャビネットのスペックが始めて策定されたのは1994年であるため、「組換えDNA実験指針」に記載可能であったとして、それは平成6年以降ということになる。
現在の二種省令には、安全キャビネットの具体的なスペックは記載されていない。この点を以って、「組換えDNA実験指針」からの後退であると指摘する向きもあるが、実質的にこの20年間に作られてきた安全キャビネットについては、古いものであっても、少なくとも”NSF/ANSI Standard 49”の規格には準拠しており、この10年間のものに限ってもJIS規格には準拠しているはずである。
それらの製造規範に従っていない製品が、万が一あったとして、それを使用することで実験の安全確保に重大な問題が生ずることが証明されれば、それは二種省令の欠陥であり、行政の失策であるとの謗りを免れないだろう。しかし、現在”NSF/ANSI Standard 49”やJISのClass IIに準拠しない製品は実質的に入手困難であり、省令に詳細なスペックを規定して事業者に遵守させることは、過剰な規制である上、無意味でさえある。
# 拡散防止措置P2とP3では、使用する安全キャビネットの規格が違うのではないか、という指摘もあるかもしれない。Class Iは、拡散防止の機能についてはClass IIと違う必要はなく、無菌操作が必要ないケースでしか適用できないので、遺伝子組換え実験にはあまり向いていない。Class IIはクリーンベンチとしての機能もあるのでP2,P3いずれの拡散防止措置でも適用可能である。Class IIIは操作性にも制約が多いため、通常はP3でもあまり使われないため、適用は大臣確認実験等に限られると考えられる。Class IIIの安全キャビネットが必須のケースとしては、旧来のP4レベルに相当する大臣確認実験のように、拡散防止措置の内容がP1-P3のように予め決められたものではなく、個別に規定することになっているケースが想定される。このケースでは、拡散防止措置については遺伝子組換え技術等専門委員会で個別に審査することになるため、省令には規定していない。

次に、安全キャビネットの使い方あるいは性能維持の問題である。
JIS K 3800には現場検査の項目があり、設置後の能力試験と定期点検を行うことになっている。その運用は事業者に委ねられているが、JISの基準を満たしていない場合であって従業員や事業所の周辺住民に健康被害を与えた場合は、上記の「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律第三条の規定に基づく基本的事項」のなかの第二第1「他法令の遵守に関する事項」に「遺伝子組換え生物等の使用等を行う者は、法の規定によるほか、人の健康の保護を図ることを目的とした法令等予定される使用等に関連する他法令を遵守すること。」に反しており、違法行為に問われる可能性がある。
その一方で、保守点検に関する規定が無い点については、安全管理における「未然防止」の概念に照らして考えるならば、病原性微生物の環境放出の可能性を完全には否定し得ないが、仮に病原性微生物の環境放出があったとして、それが個体あるいは社会的リスクとなる場合は、ヒト個体への感染あるいはそれに続く集団への伝播が発生する必要がある。そのためには、限られた時間内に感染が成立するのに十分な密度の病原性微生物が、感染に適した方法で、ヒト個体に接触する必要がある。
安全キャビネットで防御できる病原性微生物の拡散は、エアロゾルによるものであり、組換え実験においてエアロゾルでヒトに感染する可能性のある病原性微生物を扱う可能性は、皆無ではないとしてもごく限られている。また、安全キャビネットを使用するケースであって、そのような病原性微生物の感染が成立するほどの濃度のエアロゾルに従業員や事業所の周辺住民がさらされるような重大な事故があるとすれば、それはもはや安全キャビネットの管理の問題では無いだろう。

このように、二種省令においては、安全キャビネットの性能および保守管理については、特段の規制を設けていないがそれによって、遺伝子組換え生物の拡散防止において特段のリスクの拡大があるとは考えられない。
主題に戻るならば、「安全キャビネットは安全か?」という問いには、「それ自体は、適切な使用条件においては、安全性を確保できるように作られている。」と答えることになるだろう。