「・・・になります」って一体何が何になるのだ?

昨日の夕食時のこと。とあるファミレスで次の表示を目にした。

natteru!

「お茶とお冷はセルフサービスになります。」って、一体何が「セルフサービス」に「なる」のだ?
「お茶とお冷」が「セルフサービス」になるというのか?これのプレートを採用した人は、どうして「お茶とお冷はセルフサービスです。」
という伝統的な表現を避けたのだろうか。

コンビに等で、「こちら、○○円になります。」という口語表現は、この3年ほど耳にしている。この「・・・になります」
という口語表現を耳にする頻度から推測して、ことの是非とは別に、いわば21世紀型の日本語として定着しつつある状況にある。

現状として、この表現は広汎に見られるのだが、その一方で、そこには何らかの「理由」があるのだろうか?構造主義的な考え方では、
ある言い回し普及(=構造の布置の変化)は、構造(言語)の制約は受けるものの、恣意的に起きるとされる。
すべての構造の布置の変化が恣意的であるとなると思考停止に陥ってしまうので、ここはとりあえず何か理由があると考えてみたい。

「・・・になります。」

まず、この言い回しによって表現される「こと」の意味は「・・・です。」と同一であると考えてみる。すると、今世紀に入って「こと」
の性質が世間で一斉に変化したためにこの表現が広まったとは考えにくい。したがって、この表現が普及した根底には「こと」
の意味の変化があったとは考えにくい。

そうすると次に考えられるのは、「・・・になります」と言う場合の表現の特徴に何か鍵がありそうだ。「なります」は「なる」
の丁寧な表現だ。では「なる」=「成る」とは?辞書にある伝統的な語法では、

  1. できあがる。仕上がる。
  2. 組み立てられている。成り立つ。→「ダ・ヴィンチの筆になる」
  3. {「・・・して」、「・・・で」をうけて}我慢できる。さしつかえない。→「不安でならない」
  4. 他のもの、状態に変わる。→「燃えて灰になる」
  5. ある状態・時期・数量に達する。→「大きくなる」「花見時になる」
  6. 結果としてある状態が生ずる。→「何かと為になる」

くらいである。おそらく、5.6.あたりの使い方になります。いかんいかん、5.6.あたりの使い方だ。

つまりは、「結果」を提示する「だ・です」と同様の使い方でありながら、
変化をあらわす意図があるように感じられる。上述のケースでは提示される対象は「お茶とお冷」だ。
これが「セルフサービスになります」というのであれば、「お茶とお冷」は本来は(あるいは世間一般の常識としては)
セルフサービスではないのだが、当店ではそれに変わってセルフサービスですということになりはしないか?
であるとすれば、
世間並みのサービスよりは、手抜きであることを自覚しているので、本来ならば、
「お茶とお冷はセルフサービスとさせていただきます。」
という謙譲語を使って然るべき場面であるように思う。

おそらく、「・・・になります。」、という表現のかもし出す不快な雰囲気の正体は、本来謙譲語を使用するべき場面で、
「・・・になります」という意味不明の言い回しをすることで、当為の責任を何かに転嫁していることにあるのだ。
つまり、
「・・・になります」という表現をすることの意図は、責任の所在を曖昧にするためであったのだ。

言語学的な言い方を借りるならば、「・・・になります」
というシニフィアンによってあらわされるシニフィエは聞き手に意味するところの明確な輪郭をもたらさない点で曖昧な印象を与える。これを、
「やわらかい表現」と勘違いしているのではないだろうか。

ことばが変化していくことは止められない。が、その意味内容を置き去りにして、
表現だけが伝えるべき内容を正確に定義しない方角へと漂流していくことは、私には耐えられない。そのうち公文書にまで、「○○の案件のほう、
××となります。」という言い回しがはびこるようになる日が来るかと思うとぞっとする。