仮説:ヒトの能力は多面的であるが、それぞれの能力を取ってみると概ね正規分布する。

 人口の多い国では特にエリート教育をするまでも無く、ある程度の選抜を行なえば優秀な人材を集めることができるが、人口の少ない国で優秀な人材を確保するにはエリートを育てる他に方法はない。

 不思議なことに、日本ではスポーツのエリート教育に対する反感は余り見られないが、科学・政治・経済のエリート教育には国民の根強い不信感が有るように思える。尤も、スポーツのエリートは社会的に無害なせいかもしれないが。

 歴史を紐解けば、身分制度が硬直していたと考えられる幕末においてさえ、地方の藩校の俊英は家柄に関わらず、昌平校に遊学することが許されたという。才能の種類は兎も角も、そのころから優秀な人材を選抜して教育を施すという考え方はあった。

 尤も、当時どのような落ちこぼれ対策があったかは知らない。あくまで創造の域を出ないが、ひょっとしたら硬直した身分制度は一面、ある種のセーフティーネットの役割を果たしていたかもしれない。家柄が良ければ才能が無くとも食べていける。貧しい人は努力しましょう、という訳だ。そうなると、おそらく家柄も才能もない人は一生悲惨な境遇のままであったかもしれない。

 翻って、現代日本の教育の重点は、まず第一に「落ちこぼれ」を出さないことのように見える。そのために教育のレベルを下げているようだが、よく考えてみるとこれは逆効果だ。

 例えば、ペーパーテストの点数を尺度に授業の効果を見る場合に、合格の水準を70点に設定するとしよう。平易な授業の結果、10%の生徒がこの水準に達しない状況と、難しい授業の結果、50%の生徒がこの水準に達しない状況では、どちらのほうがより多くの落ちこぼれを作ることになるだろうか?

 一見、半数が落第する方が落ちこぼれを多く作っているように見えるが、半数もの生徒が落第するようなら、補講をしたり学級編成を変えたりするのが当たり前の対応だ。集めて一クラス作ってしまえば、それはもう落ちおぼれとは言わない。できなかったところを洗いなおして、きっちりやり直せばいいのだ。これも一種のクリティカル・マスといっても良いかもしれない。

 似たような悲しむべきクリティカル・マスもある。議員の数ばかり増やしても、予め相応の能力をつけておかないとどんな結果を招くか?選抜効果をゆるくして作り上げた政治家のマスは、厳選して育成した政治指導者のマスにはならない。昨今の不毛な国会の論戦を見ていると、人づくりが如何に重要かがよくわかる。あの姿が、今のわれわれ国民が選んだ代表なのだ。

 遅きに失することはない。この国の将来を委ねるに値する優秀な人材を確保するには、これからでも良いからエリートを育てる他に方法はないのではないか。