え、shugiin.go.jp?sangiin.go.jp?

いやいや、衆議院参議院からこのブログをご覧になっている方がいらっしゃるんですね。驚きました。ちなみにlogによれば、衆議院の方はgoogleの検索で、キーワードは”DHMO 化学物質 有害”、参議院の方はAOLから”ドラックラグ”でした。

いくら有害でもDHMOを規制する法律を作るのはよしていただきたいものです。私も仕事柄、高純度のDHMOは欠かせないので安全管理のためとはいえ手続きが複雑になると困るのです。

冗談はさておき、ドラッグラグのページは、お茶大の社会人再教育コースの話題でした。医薬品医療機器総合機構の方の講義で、日米欧三局の医薬品開発、承認に関わるタイムラグの問題がよくわかりました。

しかし、一方で考えを深めるにつれて、ドラッグラグのもう一つの原因は、他にあるのでは無いかと思うようになりました。それは、医薬品のに対する国民の考え方です。

ここに興味深い資料があります。元厚生労働省審査管理課長の発言として、「承認は「仮免」である。その時点での最新の科学水準に照らして判断を下すのであるが、科学水準は常に右肩上がりに上昇していくものである。したがって、承認後も承認の妥当性について継続して検討されるべきであり、それが現在の再審査・再評価制度である」とあります。

しかし、私が思うに、多くの国民はそう考えていないのではないかと。

たとえば、C型肝炎に関する薬害訴訟のホームページを見ると、血液製剤で感染した患者さん達は1969年から1994年の間の感染事例を問題としています。ですが、C型肝炎はかつては、非A非B型肝炎の一つであり正体不明のウイルス性肝炎でした。PubMedによれば、1978年の医学雑誌のレビューのタイトルでも” Non-A, non-B hepatitis”という記載があります。1977年の論文には”Hepatitis C--a new discovered kind of hepatitis”というタイトルが現れますので、この1970年代後半がC型肝炎という特定のウイルスによって引き起こされる病気だと認識された事になります。大阪訴訟の判決文を見ても、国内で血液製剤からの感染が疑われる症例が厚生省に報告されたのは昭和62年(1987年)とありますので、この時期がおそらく国内での判断の分かれ目になります。

ですので、1969−1977年くらいの間は、当時の最新技術を持ってしても、血液製剤中のウイルスを検出できなかったことになります。一方で、非A非B型のウイルス性肝炎が血液製剤を使用した患者さんに対して疫学的な追跡調査を行えば、肝炎の発症と血液製剤の投与の関連から、因果関係は推定できますので、その後1994年までの14年間対応しなかったことについては、過失が認められる範囲において国は責任を負うべきです。

判決文のp.1045あたりで、昭和62年4月(1987年)時点での非加熱フィブリノゲン製剤の適応範囲を適切に見直さなかった点については厚生大臣の過失を認めています。この時点では、非A非B型肝炎がウイルス性である可能性が高いという知見がすでにあった事に鑑みて、適切なリスクマネージメントがなされなかったというのが司法の判断です。

このように、最新の科学的知識においてC型肝炎の存在が言われ始めてから、リスク管理に反映されるまでには10年ほどのタイムラグがあったわけですが、最初の承認の時点の科学的水準で考えるのであれば、承認そのものについての過失は判決では特に言われていません。・・・にもかかわらず、訴訟は起きるのです。

そうしなければ、過失を犯した主体も、過失の範囲もわかりませんから。しかし、一方では、医薬品の承認が「仮免」であって、市販後の評価で真価が問われるのだと広く知られていたら、ここまで大規模な訴訟に発展しなかったのではないかとも思います。

そういった、訴訟のリスクを避けようとすると、審査に時間がかかってしまうのではないかと。

なお、肝炎訴訟弁護団のホームページには、「さらに、アメリカFDAの承認取消し情報に際し、何の対応も取らなかったことについては、「厚生省は、海外情報を収集する手段があったにもかかわらず、上記FDAに関する貴重な情報を収集、検討しなかったものであり、医薬品の安全性を確保するという立場からは、ほど遠い、お粗末な面が認められ、その意識の欠如ぶりは非難されるべきである」と断罪しています。」とありますが、判決文の事実関係によれば、フィブリノーゲン製剤が対症療法的に使われすぎており、そのリスクがベネフィットを上回ると考えられることから、FDAは承認を取り消すと判断したものであって、肝炎に関する言及はありませんでした。従って、この部分で厚生省を批判するのは的外れです。私は、厚労省の関係者ではありませんが、不適切と思うものに対しては批判いたします。

もっとも、この裁判の場合は、そもそもの臨床試験の症例が科学的議論をするには少なすぎるという指摘はあたっていますので、手続きに瑕疵があったのは間違いないでしょう。では、次の問題として、もし臨床試験の症例の少なさが科学的健全性を担保する上での問題であるとするならば、臨床試験でどれだけの症例があれば、副作用としての肝炎を予見できたかと言うことになりますが、これはおそらく無理でしょう。当時の技術水準では血液製剤中のウイルス濃度は制御できていませんので、どれだけの方が不幸にして感染する事になるかは、臨床試験の症例が多かったとしても予見できる事にはならないと思います。

私は薬害や公害については、国や企業が無過失であったとしても、必ず一定の割合で起こるものだと思っています。なぜなら、私たちは神ではありませんから、最善の科学的判断をもってしても予見できないことが、程度に違いはあれ、常に起こるからです。だからといって、薬害や公害が起こっても良いと判断している訳ではありません。人が全知全能でない限り防げないものはある、そう言っているのです。

ですから、誰にも過失がない場合であっても生じる”災”に対して、被災者を国が(国民が、自ら支払った税金で)支える仕組みがあって良いと思うのです。被爆者に対する補償にしても、震災被害者に対する住宅の支援にしても、台風の被害者に対する支援にしても。

さて、衆議院参議院のどなたがご覧になっているかは存じませんが、集団で被害にあった人々が居るのであれば、それを支える制度の創設を考えていただけないものでしょうか。

# DHMO規制法よりはきっと感謝されますよ。

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