コシヒカリのようなもの

今年最後のエントリーは、自分のフィールドに回帰して締めくくることにする。

近年の日本のイネ育種では、”ほとんどコシヒカリ”なイネを育成することが一つのトレンドになっている。たとえば、ミルキークイーン
コシヒカリBL
コシヒカリつくばSD1号
ヒカリ新世紀
コシヒカリ関東HD1号、
コシヒカリ関東HD2号
など、コシヒカリの突然変異体や準同質遺伝子系統(NIL)がそれだ。

コシヒカリがコメ市場においては良食味の最高峰であり、
なおかつ育成場所においては良食味イネ品種のスタンダードになっていることを考えると、食味についてはもはやいじる必要はなく、
育種目標が耐病性や耐倒伏性など栽培特性を改良することに向かうのは自然な流れでもある。

となると、次は、これらの遺伝子のコンビネーションで、いもち病抵抗性で半矮性のコシヒカリBLSD1シリーズや、
さらに出穂期のバリエーションを持ったコシヒカリBLSD1HDシリーズ、そこに極低アミロースのwx-mqを加えた、
コシヒカリBLSD1HDシリーズwx-mqあるいはミルキーBLSD1HDシリーズなどが開発されるのだろうか。

なんだかイネの品種名だか家電製品の型番だかよくわからない名前になっていくような・・・。いっそ”コムギのさぬきの夢2000”
のように、イヤーモデルにしてはどうかと思う。

12/26のFood
Scienceに松永和紀さんが”「ヒカリ新世紀」に見る育種の未来”という”イネ育種”を題材にした記事を書いている
(リンク先は有料です)。

育種家の苦労を思いやる記事で、一般の方の理解促進につながればありがたい限りだ。ただ、若干誤解があるかもしれないので、
メモしておく。

コシヒカリBLからヒカリ新世紀を連想して、
「交配により新しい遺伝子が導入されているが、そのほかの塩基配列コシヒカリとあまり変わらない」と、
どちらもコシヒカリNILと一括りにしている。育成方法と、どちらの品種もほぼコシヒカリという点でも確かに似ているが、
半矮性遺伝子を導入した場合と病害抵抗性遺伝子を導入した場合では、元品種からの性能の変化は全然違う。

導入した遺伝子が病害抵抗性遺伝子の場合は、病原体の感染が起こらない環境下での表現型は、元品種とほぼ変わらない。
病害が発生しない場合は、収量も、いくらがんばっても元品種を超えることはない。しかし、半矮性遺伝子を導入した場合は常時、草型が変わり、
その結果受光能力も変わる。また倒伏もしにくいので収量は増える。つまり、病害抵抗性遺伝子のNIL場合は、
病害が発生しやすい環境条件でも平常時の「元品種より悪くならない」ことを目標としているのに対し、半矮性遺伝子のNILの場合は、
平常時でも「元の品種よりも沢山とれる」ことを目標としている。

つまり、育種戦略の「積極性」が全然違うのだ。例えば、
アグレッシブに得点をねらう品種であるヒカリ新世紀やコシヒカリつくばSD1号に対して、コシヒカリBLは「鉄壁の守り」
で失点を許さないディフェンシブな品種といったところだろうか。だからこそ、
コシヒカリBLは製品として流通する際にもコシヒカリを名乗っているのかもしれない。

また、


「唯一はっきりしていることは、「ヒカリ新世紀」と命名するような明るさと希望が、品種改良という地味で困難な仕事には必要、
という思いだ。いや、品種改良ではなく育種と呼ぼう。日本では、育種という言葉があまり認知されていない。それほど、
新しい品種をさまざまな手法で作り上げる育種の仕事が、社会において軽んじられているのが実態だ。」

育種には明るさと希望が必要・・・私も一頃オオムギの育成に携わった身としては、その点は全くその通りだと思う。
育種は農業の生産基盤を支える技術として、社会的にもっと認知されて良い。

しかし、品種名を付ける時、育成者が何を思っているか、松永さんはご存じないのかもしれない。
私や一緒に仕事をしてきた先輩育種家(ブリーダー)達にとって、命名された品種名は、実は大して意味を持たないように思う。私たちにとって、
育成系統が品種になるということは、仕事の終わりを意味する。

作物によって違いはあるが、オオムギの育種に限って言えば、実際の品種育成のプロセスにおいて、
育成系統が生産力検定試験で期待された目標通りの収量を上げることが明らかになり、
品質や耐病性等でも欠点がないことが明らかになった時点で、育成系統は完成する。ブリーダーにとっての育成の仕事はある意味、地方番号(国、
独法の育種では、品種候補になった時点で”地方番号”という番号を付ける)を付けた時点で終わる。そこから先は、数年間にわたって、
都道府県に新系統を配布して品種としての採用を考えていただくための”営業”になる。そして、育成系統が最終的に”品種”になるかどうかは、
生産現場が新品種を欲しがっている(ニーズ)という”時の運”にかかっている。

めでたく品種に採用されることが決まった時は、”公募”で名前が付くのを待ち、
品種の普及を願って関係者でささやかなお祝いをすることもある。だが、公募で付けられた品種の名前自体には、育成者は大した思い入れはない。
”ふーん、そんな名前になったのー”という感想を持つくらいだ。ややもすると、ある育成系統が品種になることが決まった時には、
地方番号の付いた系統はブリーダーにとっては既に”過去のもの”になっており、頭の中は次の品種のことを考えている。例えば、こんなふうに。


”3年前に出した品種はたしか「超良食味」で出したんだっけ。じゃ、次は「超超良食味」か「極良食味」
で行こうか”

前の品種が優秀であるほどに超えなくてはいけない品種の水準は年々着実に上がっていき、
新品種が超えるべきハードルはだんだん高くなっている。

そして、自分で育成した前の品種の些細な欠点を取り上げては、次の系統ではそこの所が改善されています、
と言って新しい系統を売り込む。丁度、パソコンのソフトの新バージョンを売り込むのと似ている。残念なことに、組織で行う育種には、
子供の名前を考える時のような、豊かな感情の入り込む余地はあまりない。

ブリーダーは”品種”とは”生産資材”だと考えている。だからこそ、品種名に無頓着なのかもしれない。

しかし、実態として、品種の命名が市場で取引される製品のネーミングに関わる問題だとすると、
もっと真剣に取り組むべきなのかもしれないが、ネーミングする側の意識は、そう簡単にそれについていかないだろう。

# だからこそ、私は品種名をブランドにすることに反対しているのだが。

 

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