イチローは凄い。王貞治もすばらしかった。私は、北島康介にも感動したし、内柴正人もすばらしかった。特に、北島は200mを平泳ぎで早さを競ったのだ。
早ければよいのなら走ればもっと早いのに、わざわざ泳いでさえあんなに早かったのだ・・・と言ってしまうのは、個々の競技のルールに則って勝敗を競うスポーツというものの本質を理解していない証拠になるだろう。

スポーツを極めると「何の役に」というのは、このように誰が考えても愚問であろう。芸術も然り。

実は、科学も本質的には「何の役に」と言うことを指向してはいない。自然哲学として始まった科学の成り立ちからして、何かの役に立とうとは考えてこなかった。基礎研究とは本来そうしたもので、言うなれば精神的な文化活動だ。

一方、科学とは別に実用的な必然性から発達してきた技術(technique)は、生まれた時から「役に立つ」ことを目指して進化してきた。技術は進化の過程で科学の果実を取り込んで工学(technology)へと変貌を遂げてきた。単なる経験の束ではなく、体系的な知へと変化してきた。技術や工学は、文化ではなく物質文明に根ざした活動といえるかも知れない。しかし、日本ではScience & Technologyを一緒くたにして「科学技術」と呼ぶ。せめて「科学・技術」と区別してほしいものだが。

科学の発展が工学の発達を促す例はいくらもある(原子力発電も然り)。逆に技術の発展が科学の証明に役立つこともある(スーパーカミオカンデ光電子増倍管も然り)。しかし、一般的には科学は研究者以外の飯の種にはなり得ないものだ。

以下の論説は、一種の壮絶なギャグ、かもしれない。産経新聞より。
http://sankei.jp.msn.com/science/science/081013/scn0810130913002-n1.htm

【風を読む】論説委員長・皿木喜久 「何の役に」は愚問である

2008.10.13 09:12

 ハワイ島に設置されている大型望遠鏡「すばる」の開発にあたった天文学者、小平桂一さんは、予算措置を要望するために会う政治家や官僚から、決まってと言っていいほど、同じ質問を受けた。「宇宙の果てを見たいのです」という小平さんに「それが何の役に立つのですか」だった。

 著書『宇宙の果てまで』に書いている話である。何億もの税金をかける計画だから当然かもしれない。小平さんは科学の歴史をひもときながら答えたようだがはて、どこまで理解されたか。

 今年のノーベル物理学賞に決まった京大名誉教授、益川敏英さんたちも同じような質問を何回も受けたに違いない。こちらは「宇宙の果て」ならぬ「宇宙の成り立ち」をさぐる素粒子の研究だ。

 大型望遠鏡と違い、鉛筆と紙とがあればいい。膨大な予算など必要としない。それでも「何の役に…」と冷たい視線を向けられたこともあるだろう。

 だがこれは「愚問」と言える。「宇宙の生成」など人間の知的探求心が究極的に行き着く課題である。そんな探究心があって初めて技術開発も成り立つ。日本でも湯川秀樹朝永振一郎氏らの世界的に優れた基礎研究があったから、技術立国も経済繁栄も可能になったのだ。

 だが今、大学でも企業の研究所でも商品開発などに「すぐに役立つ」研究が花盛りである。愚直でも知的好奇心を満足させる基礎研究はおろそかになっている気がしてならない。

 一度に3人のノーベル賞受賞で日本中が沸いた。果たしてこの熱気で伝統の基礎研究が見直されることになるのだろうか。なってもらわねば困るのだが。


日本でも湯川秀樹朝永振一郎氏らの世界的に優れた基礎研究があったから、技術立国も経済繁栄も可能になったのだ。」という部分が本音であれば、筆者の理解では、結局のところ基礎研究の意義は”お金”ということになろう。

”「何の役に」は愚問である”・・・それは全くその通りだ。しかし、”世界的に優れた基礎研究があったから、技術立国も経済繁栄も可能になった”という答えもまた愚答である。

研究者に向かって、「何故研究するのか」とか、「何の役に立つのか」と尋ねるのは愚かしい。アスリートや芸術家に向かって「何故泳ぐのか」、「なぜ音楽を演奏するのか」と問うたり、「何の役に立つのか」と問うのと同じくらい無駄なことだ。

答えは「そうしなければ生きていけないから」、あるいは「そうしなければ生きている気がしないから」ということになるだろう。新聞等で今回のノーベル賞受賞者の下村博士の生活を垣間見るにつけそう思う。

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