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こちらからトラックバックは頂いたものの・・・私のお気楽なもとのエントリーと、先方の苦悶に満ちたトラックバックの乖離に、トラックバックの意図を把握しかねているところ。それはさておき・・・

物質としての生物、生物が生きているという状態としての生命これは概念として違うもの。それらを研究対象とするScienceとしての生物学と生命科学もまた違うものと考えた方がいいだろう。(さらには、生命現象の操作を目的とする工学としてのバイオテクノロジーと言うものもあるが、technologyの問題にはここでは触れない。)

生物学には、非常に広範な研究分野が含まれている。深海や極地の氷床の下に新種の生物を探すのもまた生物学。統計遺伝学もあれば植物病理学もある。研究対象としての生物の多様性そのままに研究分野も多様に分化している。ピペットを握って実験するのも生物学の一端だが、フィールドで観察して知見を集積するのまた生物学だ。どんな生物学を選ぶかは本人の自由だ。

生命科学はというと、もう少し範囲が絞られている。生命と言う状態の記述を追及するOmicsは概ねこの範疇に入る。

しかし、トラックバック先で言われるようには、私はOmicsが「バカらしい」とは思わない。カネ、ヒト、モノという研究資源をあらんかぎりOmicsに注ぎ込むのは、科学の発展を考えればあきらかに間違っているが、プレ・ゲノムの時代には、遺伝子を一つ単離して論文一本というペースでしか物事が進まなかったのから見れば、Omicsという基盤研究のおかげで生命現象に対する理解はそれ以前よりは、かなりマシになっている。また、分析機器の進歩のおかげでOmics自体も労働集約的ではなくなってきていることは認めざるを得ないだろう。

理論は重要だが、観察し、測定し、事実を抽象化して記述するというステップなしに、一足飛びに仮説も理論も構築できないのだから。それ自体、砂を噛むように退屈な労働であったとしても、それが理由で労働の価値が損なわれるものではない。

私は、Omicsのもっとも大きな成果は次のようなものだったと思う。例えばゲノム研究であれば、それが終わってみると当初考えられていたようにゲノムの全体像がすっきりとわかったかといえば、ゲノムのどの構造単位が、機能単位してのいわゆる”遺伝子”に対応するのかが、かえって曖昧になってしまった。結局、大規模な観察の結果、最も単純なセントラルドグマに対する例外が山ほど見つかって仮説の修正が必要になったことだと感じている。

かつて、年配の研究者から「イネゲノムの解読が終わって、もう新しい遺伝子の単離と言えなくなってしまって若い人は気の毒だね」と真顔で言われたのを覚えている。しかし、私はそうは思わなかった。Gene Ontologyでどれほどの遺伝子の機能が既知とされているかを見れば明らかなように、ゲノムの解読が終わった結果、機能未知あるいは推定されているだけ、という遺伝子(?)が山ほどあることが明らかになったのだから。何が分からないのかが分かっただけでも結構なことではないだろうか。

そういう意味では私はOmicsの成果を肯定する。ただし、私は学生が労働集約的なOmicsに従事してひたすら労働することが正しいとは思わない。学生が実験ばかりしていて考えることを怠っていて、研究した気になるというのでは、科学者を育てるという大学の役割が果たせていないことになるからだ。一方で、基礎的な実験操作や観察・計測・記録の技術を身につけないまま大学院を出た学生が職にありつくのも結構大変なことだろう。

あまり穏当な喩えではないが、建物の設計図を書く側には居る人間はそれほど多くない(新たなパラダイムを提唱する人間は一握り)。一方、設計図に沿って作業をする労働者は沢山必要だ(既存のパラダイムに沿って論文を書く研究者が大多数)。自分の好きな建物しか設計しない建築家と、どんな現場でも仕事をする土方と、どっちがくいっぱぐれないかは自明だが、どちらに身を置くかは本人の自由だ。

# 私? 筋金入りの土方です。

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