隠し事はしない。嘘はつかない。という姿勢は情報公開には欠かせない。

第2回農林水産省改革チーム「有識者との意見交換会」について

というページには、見習うべき点が多い。

# あんまりこんなことを書いてると、政府関連機関の職員としては「不適切である」なんて怒られてしまいそうですが。

有識者として、神門善久氏(明治学院大学教授)を農水省にお招きした際の指摘として以下のような話を頂いたとのこと。

この会合の開催について農林水産省の事務対応は緊張感を欠いている。開催の日時・場所はかなり前から決まっていたにも関わらず、昨夜になってようやく農林水産省のサイトに掲載され、しかも傍聴希望者は今日の10時までに申し込めという。正式な案内状は私の手元にはいまだに届いていない。今日、私が早めにここに到着したが、別室で改革チーム長を待つように職員から指示されたが、約束の時間になっても誰も来ない。このような不愉快な気持ちで会合に臨むことになり、残念である。

有識者として教授を呼ぶのに事務連絡が行っていないというのは、にわかに信じがたい。依頼出張の場合、学内で事務連絡が滞ることももしかしたらあるかも知れないので、誰の不手際かはわからないが、これはお粗末。しかし、「約束の時間になっても誰も来ない。」というのは酷い話だ。また、傍聴申込みを断りたげなホームページへの掲載のタイミングも頂けない。

さらに、

私は2006年に『日本の食と農』を著しサントリー学芸賞日経BPBizTech図書賞を受け、その後も新聞や雑誌で斬新な農政論を展開し続けている。石破大臣も私の著作を何度も読み直したという。ところが、農林水産省職員から選抜された改革チームのメンバーのほとんどは、私の著作を読んでいないことを、この会場で確認した。改革チームの意識に疑問を持たざるをえない。

えーと、この教授の持論を買って「改革」に資するべくお呼びしたのであれば、「改革チームのメンバーのほとんどは、私の著作を読んでいない」というのは頂けない。専門家の考えを聞きたいのであれば、それを良くあらわしている著書を読むべきだ。あまり失礼な処遇をしていると、しまいには学識経験者にも見放されてしまう。

私の著作を読んでいないことを、この会場で確認した。」というのは、おそらく前提条件として改革チームは信用できないという予想をしていたのかもしれまない。そして、残念なことに、結果としてその予想は的中したのだろう。

また、「昨夜になってようやく農林水産省のサイトに掲載され、しかも傍聴希望者は今日の10時までに申し込めという。」という具合に、ホームページの更新もチェックして農水省の対応も追跡されている。これも、相手を信用している場合には普通はしない。

にもかかわらず、神門先生はすっぽかしたりせずに、きちんと農水省にやってこられた。予想を確認したかったと言うだけでなく、学者として日本の農業、農政を何とかしたいとお考えの上だろう。こういう方を粗略にしてはいけない。

一方、この顛末を包み隠さず公表した農水省も至極まともな対応ぶり。

また、

これらは、農林水産省の職員が農業に対して関心を失っている証左である。定年まで身分が保証されて働けそうだからという理由で農林水産省に勤めているだけというのが、大多数の職員のホンネではないか。そのホンネを否定するのではなく、職員の大多数は農業には関心がないということを前提にして、農林水産省のシステムを改革するべきである。

この指摘は、全体としては、そう間違ってはいない。前半の「農林水産省の職員が農業に対して関心を失っている証左である。」という所は論理の飛躍を感じるが(きっとかなり腹が立っていたのでしょう)、「職員の大多数は農業には関心がないということを前提にして、農林水産省のシステムを改革するべきである。」というところは頷ける。

職員個々人が高い意識を持っていなければ、組織として精度設計通りに機能できないというのは問題だ。職務を全うできる能力の人材が、適正に(責任とそれに応じた権限をもって)配置されていれば、きちんと機能できるシステムであるべきだ。システムとしては弱体な部分を職員個人のポテンシャルや”やる気”でカバーしようとするのは社保庁年金記録問題とも相通じるものがあるように思う。

やる気や関心は仕事の質を高めるのには役立つが、それがなければシステムが本来の役割を果たせないと言う状況があれば、システムは改善(あるいは改革)しなくてはならない。

ただ、今回、農水省が自己改革をする際に、「職員の大多数は農業には関心がないということを前提にして」ということが、仮に、あくまでも仮に、あるとするならば、それは相当に情けない状況である。

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あまりに面白かったので、神門先生の著書を調べてみたら、こんなページがありました。これによると、

本書は日本社会が陥っている集団的誤解の現状と発生メカニズムを論じています。大衆は「耳に痛い正論」を避け、「甘い虚偽」を求めます。手ごろな誰かに罪をなすりつけ、自らは被害者を装いたがります。マスコミと研究者は、大衆に迎合して、大衆の好むようなインチキな情報・意見を作ります。集団的誤解の中で無自覚のまま、刹那的な利益を楽しみ、将来世代を犠牲にします。過去、30年以上まで遡って、新聞や雑誌の論調を調べ上げ、90年代中頃以降、そういうゆがみに拍車がかかっていることを指摘しました。

「食」も「農」も、身近な話題です。ですから、「私はよく知らないけれど」とか「私は当事者ではない」いう逃げ口上を読者に赦しません。いわば読者を攻撃している本です。とても売れるとは思いませんでした。

そうですね。マスコミは消費者としての自覚や責任を問うことはありません。マスコミから見た消費者はあくまでも、無力で無知で不勉強で無責任な存在です。私は一人の消費者としては、そのようなゆがんだ見方を拒否します。

そして、

たぶん、私はへんてこりんな奇人・変人の類です。奇人・変人を育てる度量が明治学院大学にあるということです。

とあります。ま、研究者にはありがちですので驚きませんが。

さて、私も「日本の食と農」を読むとしましょうか(実はまだ読んでないんです)。

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