日本でも、”脳死は人の死である”・・・ということになった。

参議院臓器移植法の改正案が成立した。参議院での議論の焦点や経緯については、議員の哲学を知る上で色々な見方ができそうだが、ともあれ衆議院の議決を受けてA案が採択された。

現行の臓器移植法は、臓器移植という一種の医療行為を行なう場合に限って、脳死を人の死としてきた。つまり、脳死状態のヒト(生物学的な意味での”人”)でもドナーとしての意思表示をしてこなかったヒトは、脳死状態でも”死んでいない”ことになり、臓器を提供しても良いという意思表示を行政的に認められる一定の方法で示したヒトのみが脳死状態になったときに、”死んだ”ことになっていた。

つまり、単純に

1.”亡くなった方の肉体 → では臓器移植の提供元になっていただきましょう”

ではなくて、

2.”脳が機能停止した方の肉体 → 臓器提供の意思がある場合のみ死亡と見做す → では臓器移植の提供元になっていただきましょう”

であったものが、単純に1.になった。

# 細かく見ていくと、脳死をヒトの死と見做す今回の改正では、年齢制限以外にも多くの制限要因が撤廃されたことになる。

今般の法改正では、医学的には同じ状態 −脳幹を含む全脳髄の不可逆的な機能喪失− であっても、肉体の状態を余所に、本人の意思を含めた周囲の社会的な環境によって生きていたり/死んでいたりという奇妙な状況は一応解消されるのだろう。

一方、これからの脳科学の発展如何では、脳死の定義がさらに変わってゆく可能性もある。脳の”不可逆的な”機能喪失とはどういうことか、脳死判定の対象部位は、「脳幹を含む全脳髄」か「脳幹」か、etc. そのあたりの議論は、今後の科学の発展を横目で見ながら深めていく必要があるだろう。

ともあれ、私の個人的な見通しでは、今後、再生医療が発展していけば、他人の臓器の提供を前提とした移植医療は再生臓器の移植と言う方向へ発展的に解消していくと考えている。そういう医療技術の発展の歴史的な流れを考えれば、この国が、そして日本国民が臓器提供という医療技術の一つの構成要素で、法律上の個人の死という重要な事柄を定義するという、奇妙で非常にad hocなものの見方から開放されたことは大変喜ばしい。

一方で、この法改正で”脳死判定”の持つ社会的な意義もまた大きく変わろうとしている。まだ心臓の動いている暖かな肉体が、法律上は既に死亡している遺体となった場合、その状態を維持する措置はもはや”医療”ではなくなる。これまでは延命措置として医療行為の一部と位置づけられていたものが、脳死判定をすることで病院の行なうべき業務の範囲から外れる可能性もある。退院した場合でも保険の適用対象から外れるのであれば家族の経済的な負担の問題もでてくるだろう。法律上の個人の死の定義は、行政的な影響範囲も大きいのだ。医師による「脳死判定の錯誤」に対する訴訟も起きては欲しくない。

# 議員は国民の代表なので、こういう影響の大きな決定を行なう場合でも、役所とは違って”パブリックコメント”は無いのだな。

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