[前置きがちょっと長い]
 毎日新聞に「理系白書シンポジウム 理系の壁をこわす〜みんなで考えよう」と題するシンポジウムの記事が掲載された(1)。いや、しかし、このサブタイトルからして、"文系・理系"の間に壁があることを、しかも、その壁が理系という特定の領域を囲い込んでいることを暗示している。というか、タイトルを付けた主体は”文系の側”に居て、壁の中の"理系"に対してアプローチするのだ、という態度をとっていることが透けて見える。深読みのしすぎだろうか?
 そもそも、"文系・理系"とは何か?"文系"と"理系"の間に壁はあるのか?壁があるとしたら、それはどのような配置で文系と理系を隔離しているのか?という問題設定が、議論を始める前に提示さるべきではないか?そこから「理系と文系は別だ」→「その間に壁はある」→では「理系の壁をこわす」と言う展開になるのならわかるのだが、いきなり「理系の壁をこわす」では、「そもそも壁など無い」という展開に持っていかれたらお仕舞ではないですか。それとも、その前段を理解するには毎日新聞社の「理系白書」を読め!ということなのでしょうか。
 シンポジウムの中で毛利衛さんが「「文系白書」がなくて「理系白書」があるということは、理系はやはり特殊で少数派だという認識が社会にあるからでしょう。」と仰っているあたりから、「日本の社会においては文系の人・理系の人という区別がなされている」という現状認識に基づいた議論であることは辛うじて伺えますが。
[私の態度]
 日本の社会の現状として、人を処遇する上で"文系"と"理系という区別(差別)は確かにある。しかし、その前提である"文系"と"理系"という区別には意味は無い。人は生まれながらにして"文系"や"理系"であるはずは無く、教育の過程で本人の適性や指向性に応じて選別されるだけのことである。
 我が国で"文系・理系"として区別とされているものは、本質的には物事に対応するときに、「経験に基づいて直感的・情緒的に対応する」か、あるいは、「データをとることで物事を抽象化し、明示的な原則に従って対応する」かである。私は、前者を「研究しない人」後者を「研究する人」と類別している。
 この、「研究しない人」と「研究する人」とする類型化は、大学における研究分野の"文系"、"理系"を問わずあてはめることができる。また、それにとどまらず、広く社会全般を構成する人々の類型化にも有効である。つまりは、これらの違いは自分の判断の合理的な根拠を示せるか否かといっても良いだろう。あなたは、どっちですか?
 私の態度は、「日本には人を処遇する上で文系・理系の区別はある。しかし、その区別の根拠は不合理的である。したがって、そのような区別は無くすべきである。」と要約しておこう。
[この研究は文系?理系?]
・美術史: 絵画の顔料の蛍光X線分析で元素を特定し、顔料の開発・使用された年代についての文献的知識と照合して描かれた年代を推定する。
・考古学: 石器の表面の水和層の厚さの精密測定結果から、製作年代を推定する。
・考古学: 銅鏡の不純物の元素比率から、鋳造産地を推定する。
国語学: 源氏物語の文頭文末の計量分析から、巻ごとの作者を推定する。
・?: 茶道の所作、道具の類似度からクラスター分類を行う。
・医学・生物学: ES細胞の医学的利用に対する国民的コンセンサスに向けての意識調査。
 etc. このほか、データマイニング的な手法で古文書の写本の履歴を明らかにする、とか、非生物の系統解析に生物学の計算手法を適用するとか、融合分野は花盛りである。さて、このようにアカデミズムの領域では、もはや文系・理系という区別では捕らえきれない研究分野が萌芽し始めているところである。
 さて、そのような状況の中で、最近私の目を引いたのは「もの研究」という研究領域、というか、アプローチの姿勢である。
[おもむろに本題に入る]
 もの研究とは何か、はこちらをご覧頂きたい。このアプローチの中でも、私の関心を引いたのは、「もの研を支える理念」の中の「もののもの性」という考え方である。詳細はリンク先を読んでいただきたいが、「もの」に迫るアプローチの仕方が、生物学の分野における個別の遺伝子研究からゲノム研究へとシフトして行った際の考え方と良く似ている。少なくとも、私にはそう読める。たとえば、「もののもの性」の一部について、「もの」を「遺伝子」に置換してみると次の様に読める。
しかし、それらの遺伝子には、直ちに名前と意味が与えられ、ある役割・機能に制限された「特殊な遺伝子」とされます。逆に、そうした意味などが付与されない遺伝子は、「単なる遺伝子」とみなされ、文字通り「無意味な遺伝子」という形で、我々の意味世界から放逐されがちです。

裏返して言えば、遺伝子を、遺伝子そのものとしてではなく、「意味ある遺伝子」として対象化 objectification することによって ―― つまり、遺伝子を主体 subject にとっての対象 object へと限定することによって ――、従来の遺伝子観には必然的に「主体」への過度の傾斜が存在していたのではないでしょうか。遺伝子を見て、遺伝子を問うているはずなのに、常に遺伝子を見る私のほうが問われてしまうという具合に、問いの焦点が遺伝子から主体へと反転してしまう逆説。
 これは、従来型の個別の遺伝子研究−手に入る限られた情報に基づいてモデルを立て、代謝経路全体を推定する−では、目に見える限られた遺伝子に過剰な意味づけをしがちであって、しばしば全体像を見落とすことがある、というアナロジーを想起させる。
 また、同じページの「ものの多元性」では、筆者は次の様に述べている。
つまり、それぞれの学問分野は、各々の研究対象たるものを特定の役割・機能に制限された「特殊な遺伝子」に翻訳することを研究活動の前提としていたのではないでしょうか。前段の言葉を使えば、各分野ごとに遺伝子を選別し、選ばれた一部の遺伝子のみを各々の流儀で「意味ある遺伝子」として対象化することではじめて、各学問は成立しているように思われます。
 ほらね?個別の研究分野は、研究対象に過剰な意味づけをすることで、その他の現象と差別化することで成り立っているという洞察があるでしょう。個別の遺伝子研究に対する批判してゲノム研究を立ち上げたのと同じ構図がここに見て取れます。
 生物学においては、この「対象化」という過程をできるだけ省くためにとられたアプローチの一方は、対象を限定しないで"全部やる!"というゲノム研究(あるいは、トランスクリプトーム、プロテオーム、メタボローム、フェノームetc.のOME的アプローチ)であり、方や、計算機科学と生物学の融合から生まれたシステムバイオロジーにおける"Model Driven"から"Data Driven"への思考方向の転換です。
 遺伝子研究においても、コンテクスト依存でない対象の捕らえ方が進んでいますので、このような方法論は比較的理解しやすいと思います。その一方で、個々の生物種の遺伝子というものは、ほぼ有限集合であって系として閉じているのに対し、「もの」はそうではない。時間の経過に伴い無限に増殖する可能性を持っているので、ゲノム研究的なアプローチはとり得ない。そうなると、「もの」とそれと係る「人」の関係を抽象する文化人類学的アプローチを取るのだろうか?などなど、疑問は尽きないところです。「もの研究」の本質は、その方法論を含めた反省と絶えざる問いかけなので、結論は必要ないのかもしれません。