科学的(科学者)である前に倫理的(社会人)でなくてはいけないが

 東京大学医科学研究所で、研究所内の倫理委員会での議論を経ていない臨床研究が行われ、また患者の同意のない検体が実験につかわれた。その研究が論文として公表されたことが、朝日新聞の一面トップ記事になった。以下、一部を掲載する。

 個人的には、今回の事案は被験者に対する人としての配慮に発するコンプライアンスの問題であって、研究結果について科学的な面から虚偽を報告した平教授や黄教授の事件とは区別して考えるべき問題であると思う。新聞の論調ではそのあたりの区別は付いていない。

「倫理委承認」「患者が同意」と偽り3論文 医科研教授

2008年7月11日3時2分


 東京大学医科学研究所で白血病など難治性の血液疾患を研究している分子療法分野研究室教授が中心となって発表した論文で、研究倫理をめぐる虚偽記載が繰り返されていたことが朝日新聞の調べでわかった。
実際には受けていない倫理審査委員会の承認や血液などの検体の使用の同意を得たと偽った論文が、少なくとも3本あることが判明。教授は取材に対し、自らも虚偽記載をしたと認め、論文1本をすでに撤回した。

(略)

 ヒトから細胞や血液を採取して使う研究は、患者の体に負担がかかるうえ、その個人情報保護にも特別な配慮が必要だ。各機関の倫理委による研究計画書の事前審査や、十分な説明に基づく提供者の同意がなければ研究を認めないのが国際ルールで、03年7月にできた国の指針もその順守を求めている。

 しかし、取材を機に始まった医科研の内部調査でも、指針が適用されて以降、国内外の医学誌に発表された論文5本に倫理面で虚偽とみられる記載が発覚。撤回された論文は白血病の悪性度の測り方が研究テーマで、今年5月にイタリアの医学誌「ヘマトロジカ」に東條教授を責任者とする研究室のメンバー4人の連名で発表していた。

 この研究では、医科研付属病院で89〜03年に急性骨髄性白血病の患者5人から採取された骨髄と末梢(まっしょう)血を使用。倫理委の承認を得たり、文書による患者同意を掲げた世界医師会のヘルシンキ宣言に従ってすべての患者から同意を得たりしたと記載していたが、東條教授によると、実際には倫理委を通さず、同意も一部からしか取っていなかった。

(略)

 こうした論文の基礎となる研究には、文部科学、厚生労働両省の科学研究費補助金の対象も含まれている。文科省は 「倫理面の虚偽記載は論文の捏造(ねつぞう)にも等しい」との見方で、科研費の停止措置などに至る可能性もある。

 東條教授は医科研付属病院副院長や血液腫瘍(しゅよう)内科長も兼任。同科は臍帯(さいたい)血移植で世界有数の治療成績をあげている。(西川圭介、小倉直樹)

 この種の事案にはいくつか視点の異なる問題点が混在している。記事が正確に事実を伝えていると仮定して問題点を要約すると次の通り。



  1. 臨床研究の研究計画を倫理委員会に諮ることは、厚生労働省ガイドライン東京大学医科学研究所の内規でも求められているので、その手続きを経ずに研究を実施したこと。


  2. ヒト由来の試料を研究に使用する場合は、一般的には(一部例外もある)試料の提供者に対して、研究に使用する旨を説明して同意を得なければならない。このルールはヘルシンキ宣言厚生労働省の「臨床研究に関する倫理指針」で求められているが、提供者の同意を得ていない試料を使用して研究を実施していること。


  3. 2.の説明同意は文書で行うことを「臨床研究に関する倫理指針」で求めているが、この手続きを怠っていること。


  4. 研究計画の審査と、説明と同意に関して、論文に明らかに事実と異なる記載をしたこと。

朝日新聞のトップ記事からはわからないこと。



  • 「医科研付属病院で89〜03年に急性骨髄性白血病の患者5人から採取された骨髄と末梢(まっしょう)血を使用。」とある。この際の骨髄や末梢血の採取目的



    • 治療に必要な検査のため?あるいは研究のため?研究目的だけで、体に負担のかかる骨髄を採取する医者がいるとは非常に考えにくい。


    • また、試料の入手時期が89−03年であれば、厚生労働省の「臨床研究に関する倫理指針」やそれに基づく医科学研究所の内規に関わる違反があったとしても、指針の公表された03年の7月30日以降。
      指針に基づいた内規に対する違反があれば、7月30日から12月31日までの間の5ヶ月間。従って、指針違反はあってもおそらくは少数例


    • 別の記事には、”清木所長は会見で「病気の治療を目的とする検査と、研究を目的とする検査の相違に対する意識の欠如があった。”とあるので、末梢血は検査目的で採取したもの。


  • ヘルシンキ宣言においては「医師は対象者の自由意志によるインフォームド・コンセントを、望ましくは文書で得なければならない。」と、「文書」による同意は努力義務であるとはっきり書いてあるが、記者はこの点を認識しているか?



    • 記事にはこうある。「倫理委の承認を得たり、文書による患者同意を掲げた世界医師会のヘルシンキ宣言に従ってすべての患者から同意を得たりしたと記載していたが、東條教授によると、実際には倫理委を通さず、同意も一部からしか取っていなかった。」。ここで 「文書による患者同意を掲げた世界医師会のヘルシンキ宣言」と書いてあるが、論文にヘルシンキ宣言をこのように説明的に書く訳はなく、記者による補足と考えられるが、補足の仕方が間違っている。


  • 記事には「個人情報保護にも特別な配慮が必要だ。」とある。一般に個人情報の保護への配慮は必要だが、個人情報保護法への対応が必要なゲノム研究とそれ以外の研究では対応が異なるが、その違いは記事からはわからない。

 私は医者でも医学関係者でもないが、臨床研究の準備に関係したことはある。臨床研究の倫理審査についてはしばしば考えさせられたものだ。臨床研究では、研究者は徹底的に説明責任を果たせるようにしておかなければならない。倫理委員会の審査や研究自体のの透明性は非常に重要だ。
 組織としての体制整備は重要だが、研究者が山ほど書類を書かなければならない現状にも、効率の面で問題はある。

 治療に必要な検査のために、患者さんから試料を採取することはよくある。希な症例の場合は、試料それ自体貴重だ。重篤な疾患で患者さんが不幸にして死亡してしまった後も、長期間冷凍保存していることもあるだろう。

 今回の件では、病院の検査や手術の現場で患者さんから採取された試料だ。通常の医療行為の過程で採取された試料であるならば、研究のために患者さんの負担が増えたり、研究のために特別な苦痛を感じたことは恐らく無かっただろうと想像する。これは、後ろ向き研究の場合には概ね当てはまるはずだ。

 たしかに、論文に虚偽の記述をしたことは信用失墜行為として責められるに値するし、重大なルール違反だ。しかし、その結果、科学的には妥当で有用な研究成果や、研究スタッフの多大な労働が葬られるのであれば、自業自得であるにせよ、実にもったいない。

 一方で、研究には長い時間を必要とするものもある。ヒト由来の試料を採取した時期と、社会的な制度が整備されるまでのタイムラグは往々にして発生する。記事には倫理委員会がどうのと書かれているが、時系列で整理してみれば89年(19年前)の試料を研究に使用していることからも、現在のルールを遡って適用できないのは明らかだし、かなり希な症例であるということが想像できる。

 また、04年の論文(これ? )であれば、"Submitted March 17, 2004; accepted July 10, 2004"とあり、投稿が04年3月、研究実施は1999-2003と書いてある。従って、研究期間から言えば、2003年の7月30日公表の厚生労働省の「臨床研究に関する倫理指針」に従っていなくても、この件については不正とまでは言いにくい。

 問題は、2004年の論文ではこの表現に絞られる。


The clinical protocol was approved by the institutional review board of the Institute of Medical Science, University of Tokyo, and written informed consent was obtained from all patients in accordance with the Declaration of Helsinki.

 研究の実施主体は医科学研究所だが、検体採取は医科研付属病院。一見同じ組織に見えるのだが、実は別組織である。こういう場合、本来はどちらの倫理審査委員会が担当するべきなのだろうか?また、検体の採取は医科研付属病院で目的も検査ということもあり、最初は臨床研究という意識が薄かったのかも知れない。いずれにしても"The clinical protocol was approved by the institutional review board of the Institute of Medical Science, University of Tokyo"というのが不適切だったのだろう。

 突き詰めれば、問題点は一部の試料についてのインフォームドコンセントの欠落(ヘルシンキ宣言からの逸脱)と倫理委員会での審査と試料提供者の同意に関わる論文への虚偽の記載。その辺に落ち着くはずだ。

 不正は不正に違いないのだが、それに対して、この騒ぎぶりは何だろうか。内部告発と言うよりは、何か密告と魔女狩り、というか研究者バッシングの臭いがする。

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