そこに構造的な問題はないか?

 東大医科研で行われた倫理委員会を経ていない臨床研究の実施と、論文への虚偽記載のフォローアップ。朝日新聞では、7/11に引き続き12、13日もこの問題について追加の報道と、社説を掲載している。

# なお、Googleで見る限り、blogger諸氏はほとんど反応していない模様。

 一連の事案の経緯はこちらに書いたので省く。
論点は以下の通り。

  • 一部、インフォームドコンセントを得ていない試料を研究に使用したこと。
  • その結果を論文に記載する際に、全ての試料についてインフォームドコンセントを得たと記載したこと。
  • 臨床研究の計画は、研究所内の規定および厚生労働省の指針に従って、機関倫理委員会(IRB)の審査の上で実施することになっているが、実際は審査・承認を経ずに研究を実施していたこと。
  • IRBの審査・承認を経ずに実施した研究であるにもかかわらず、審査・承認を経たと論文に書いたこと。

 以下に朝日新聞の13日の社説を引用させてもらう。


 同研究所の清木元治所長は陳謝するとともに、「検査と研究の違いについて意識が薄かった」と述べた。

 同じ血液を採るにしても、研究目的となると、治療目的での検査とは患者の受け止め方がまったく違う。研究目的は必ずしも患者自身の利益に直結しないからだ。だからこそ、患者にていねいに説明し、同意を得ることがいっそう厳しく求められているのだ。

 患者の検体を研究に使用する場合に、なぜ患者の同意が必要なのか?と言う疑問に対して、この社説では「研究目的となると、治療目的での検査とは患者の受け止め方がまったく違う」と説明している。

 本当にそれが理由なのか?話は少々わき道に逸れるが、では日本赤十字が、期限切れで輸血に使用できなくなった血液を試験に提供する場合はどうなのだ?東京都赤十字血液センターのホームページにはこうある。


各種検査で基準を満たさない血液や有効期間を過ぎた輸血用血液、検査に用いた検体の残りなどは、輸血の有効性や安全性の向上のための研究や安全な輸血のための検査試薬製造等に有効に活用しています。さらに、国の指導の下、他の研究機関との共同研究にも使用しています。しかし、残念ながら上記以外の血液は感染性医療廃棄物として適切な管理のもとに処理しています。

 私はよく献血をするのだが、はたして血液提供者は献血の際に、自分の血液が研究に使用されることを同意したことがあるだろうか?気持ちの問題というのなら、これも研究目的となると、治療目的での輸血とは提供者の受け止め方がまったく違う」ということになりはしないか?

# ちなみに、私は、献血した私の血液が何かの役に立つのなら、使い道が何であれ期限切れで捨てられるよりはましだと思っている。

 臨床研究の中には死体から採取した組織を使用する場合や、検体採取後に提供者が死亡する場合もあるに違いないが、この場合は本人の気持ちは問題にできないのだ。検体を提供する「患者の受け止め方」を論点の中心に据えると、問題が違って見えてしまう。ヘルシンキ宣言を読んでいただければわかると思うのだが、検査のために採血した血液の流用であれば、問題は、その研究が行われた結果、そして論文が公表された結果によって、患者やその関係者の人権を侵害した事実があるのかということだ。

 もし仮に「患者の受け止め方」を中心的な問題に据えるのであれば、今般の報道がなければ患者に知られることもなく、従って誰も傷つかなかった、という議論さえ可能なのだ。臨床研究において患者の気持ちを尊重することは大切だが、研究者の負うべき責任の範囲はそれにとどまるものではない。

 今回の例とは異なるが、ゲノム情報を解析した場合を考えればわかるように、影響の範囲は本人のみならず親兄弟や子孫にまで及ぶこともあるのだから。研究に対する同意の求め方、同意の範囲は本人と関係者の人権に配慮して、ケースバイケースで慎重に考えなくてはならない。「患者の受け止め方」を中心においた議論であってはいけないのだ。

 朝日新聞社は今回の件はどうだと考えているのだろう。「患者の受け止め方」に還元できる議論であるならば、そこを確認したのだろうか?

 また12日の記事には次のようにある。


甘い体制整備、倫理「個人任せ」 東大医科研虚偽論文

2008年7月12日3時2分

 医学論文で研究倫理をめぐる虚偽記載が明らかになった東大医科学研究所(東京都港区)には、研究者が患者らの血液など検体を保管する際の規則や患者から同意文書をとるための決まった書式がなかったことが分かった。研究者を対象にした倫理研修も今年4月に初めて定期化したという。清木元治所長は「医科研は、倫理面の意識が薄かった。研究所全体として体制整備の必要性を認識するのが遅れていた」と言っている。

 医科研の内部調査担当者によると、研究倫理にかかわる手続きは、事実上、研究者個人の「倫理」に任され、組織としてはノーチェックだった。こうした環境が、今回発覚した東條有伸教授(52)の研究室による論文への虚偽記載につながったとの見方が研究所内では強いという。

 医科研幹部の一人は取材に対し、「東條教授は、共同研究者から『倫理審査委員会に出しましょう』と言われるなど、せっぱ詰まって出さなければいけなくなった時しか、(倫理委に)申請していなかったようだ」と話す。

 11日に記者会見した清木所長は再発防止策について、毎年、各研究室が行うプロジェクトを報告してもらい、それぞれがきちんと倫理申請されているかどうかを定期的に点検する考えを示した。

 同じ東大でも、医学部(東京都文京区)は対照的だ。ヒトから採取した検体を研究に使用する際の同意の取り方や個人情報保護の扱いについて統一的な手順を詳細に定めている。さらに03年からは臨床研究を行う医師や研究者に研究倫理セミナーの受講も義務付けた。研究計画について倫理審査委員会に申請する際には、原則としてこの受講証が必要という。

 世界医師会の「ヘルシンキ宣言」や厚生労働省の倫理指針が、個別の医学研究に倫理委の承認や患者からの文書による同意の取り付けを求めているのは、かつての「人体実験」が明らかになった経緯などを踏まえて、患者や検体提供者の意思に反して研究が行われたり、本人の知らないうちに自分の体にかかわる情報が出回ったりするのを防ぐためだ。

 医療倫理に詳しい東大関係者は「『患者のために』ということならすべて許されると考えるのは、研究者のおごりだ。身体の一部という究極の個人情報を扱う以上、十分な説明と意思確認は欠かせない。透明性確保のため文書で同意を得るのも当然だ」と指摘する。また、医療倫理にかかわる厚労省の担当者は「国内最高レベルの研究機関で研究倫理について虚偽記載がまかり通っていたとは信じられない。明らかに一線を越えており、研究所全体としても『意識が低かった』では済まない話だ」と話している。(西川圭介、小倉直樹)

 同じ東大でも医科研はダメで医学部はOKだという論調は頂けない。そりゃぁ研究倫理の担保が万全なセクションもあるだろう。しかし、これは一部で不祥事があれば全部をまとめてバッシングするのを常とする新聞らしくも無い。

# 東大医学部を持ち上げるのなら、居酒屋タクシーを利用していない大部分の公務員も、ほめておくれ、というのは冗談だが。

 そもそも、この事案について、医科研の倫理審査委員会がなぜ機能していなかったのかについて、その背後にある構造的な問題にも目を向けるべきだ。研究者個人の問題に帰結していては、再発を防ぐことはできない。

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